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あなたは「誰」ですか?

果たして障がい者は自分のことを「障がい者」だと思っているのだろうか?
果たして高齢者は自分のことを「高齢者」だと思っているのだろうか?

 年齢や障がい、身体状況で判断することが多いとは思うが、周りの認識と本人の認識に違いがあるときにはどうだろうか?

 免許証を所持していない時、自分が「何者」だと証明する方法として、介護保険証や障害者手帳、健康保険証を見せる。ただ、自分を表す手段としての道具であるだけなのに、なんだか「足かせ」みたいに感じていないだろうか。また、特別な存在として「印籠」みたいになっていないだろうか? 自分でほしいと言ったわけではないのに、ね。

 では、自分のことをどれだけ理解しているだろうか?
 病気のことや、家族のことを他人に説明できるだろうか?

 また逆に、自分が障がい者や高齢者でないと言うのなら、そのことをどうやって証明するのだろうか。言葉だけでは伝わらない時には、自分の正体をどうやって伝えるのだろうか。自分で伝えられない時には、他人に手伝ってもらうのか。

 そして、自分が『障がい者』『高齢者』だと認識できたとしても、福祉サービスの利用となった時には、また、考え、悩むこともあると思う。

 もしかしたら、自分はサービスを受ける権利があるのだろうか。
 サービスを使う理由を本人は説明できるのだろうか。
 サービスを使えば、自分は変われると思っているのだろうか。

 サービスを使うと、自分のことを「障がい者」「高齢者」だと認めてしまうことになる。いわゆる、「区別された」と思ってしまう人もいるのかもしえれない。
 社会福祉としては「包括的に」ではあるが、無理やりに包括的の輪の中に組み込まれてしまったと思う人もいるのではないか。
 これまで、関わりのなかった人が『あなたのために』とやってくる。そして「障がい」「高齢」だけをみて判断されてしまうこともあるのではないか。

一方で、

 そのことは、サービスを提供するスタッフにも言える事で「資格」はあるけれども、その資格のことを人に言えるだろうか。
 また、「資格があること」でしか、自分を説明できないのならば、資格に振り回されているようだ。(僕もその一人)
 この資格は「○○ができます」とは言えるけれど、そう伝えても、出来ることと出来ないことがあるし、得意・不得意がある。そして、何より「自分自身」の説明にはなっていない。支援をする中では「自分自身」のことは関係ないのかもしれない。だけど、利用者に対してはアセスメントの名のもとに色々聞き取りをしておきながら、支援者が自分のことをアセスメントや分析ができていないというのはどうだろうか。

 また、あなたを○○と認めてくれる人はどれだけいるだろうか。人によっては、認めてくれない人もいると思う。
 年齢だったり、性格だったり、態度だったり、するのか。
 認めていなかったとしても、相手は「人」に対して認めていないのか、「資格」に対して認めていないのか。

 「自分を理解する」「自分を説明する」こと。福祉サービスの利用者もスタッフも大事だと分かっているけれども、なかなかできているとは言えないかもしれない。
 「言えない」理由は、ちゃんと向き合っていなかったからとも言えるし、向き合う機会がなかったとも言えると思う。サービスを使うために、アセスメントの名のもとに自分と向き合う機会が与えられる。

 これまでの話で考えてみると、人は「肩書」によって、自分を説明できると思い込んでいるのではないか、もちろん印象を与えることはできるけれど、逆に自分を追い込んでいることはないか。

 また、周りに『自分は障がい者(高齢者)です!』『私は相談員です!』と言い過ぎるのも、いかにも誇示しているように見えてしまう。ただ、

障がい者(高齢者)だからって、何が悪い!
自分のことを正直に言って何が悪い!
相談員と言って、何が悪い!

 自分のことを認められることで、適切なサービスが利用することができる。人に対して支援できる。
 他人からの視点も良くも悪くも変わってくる。

 ちょっと言い過ぎたかな・・・。

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