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我慢

「本当の我慢をしたことがあるか」と利用者から言われました。

 障がい者にとって、施設に入ったことのある人だったら、親に甘えたい年頃に強制的に離され、身体も自由に動けず、行動の自由も限られたことはあるか、と。
 好きなことも満足にできず、嫌いなことも無理やりやらされ、時間に管理されている生活をしたことがあるか、と。

 しかも、家族にいつ会えるかわからない。会えるにしても、車で運転してここまで来たから「ずっとここにいて」とは言えないし、言ってはいけないような雰囲気がある。
 それでも我慢ができない時もあると思う。「と思う」と書いたのは、理解しようと思っても、障がい者としての立場にならないと苦悩は分からない。抑えきれない思いが、独創性につながることも、反社会的な行動につながってしまうこともある。

 このことは障がい者に限ったことではなく、高齢者もそう。
 長年暮らしてきた自宅から離され、施設に入る。自分はまだ元気、と思っていても家族が決める。自分から入ると決める人もいるとは思うが、それでもとんでもない我慢である。
 見ず知らずの高齢者ばかりの空間に入る。
 しかも、自分もいずれこうなるんだということも見てしまう。

  他人に介護してもらわないと生活できない辛さ
  やりたくてもできない辛さ
  「安全」という名のもと、最初から「無理」と言われる辛さ
  自分以外ができて、自分ができない辛さ

 施設で生活するなかでも、赤の他人と同じ部屋、同じテーブル、
「相性がいいと思って・・・」
 いや、話のできない、声の出せない人同士で相性ってなんだろう?

 それでなお「我慢して!」と言われて抑えきれないのも人間。でも、我慢を乗り越えた先には、「人に対する思いやり」が身につくような気がしている。自分が我慢してきた気持ちが理解できるから、相手に対する接し方も少しは分かって落ち着いて対応できるはず。
 まぁ、ここで我慢ができない人は、(人によっては理由があるとは思いますが)自分が大事なんだろうなと思ってしまう。 

 そして「我慢の限界」とは、ひとりよがりな我慢ではいけない。
 一人の我慢の限界が他人や社会に迷惑をかけることもある。
「我慢の限界」の先には何があるのかというと、なかなかうまく言えないけど「孤独」なのかなと思う。だれとも関わることのなく、社会との関わりのない生活なら、自分のことだけを気にしていればいい・・・なのかな。でも、その孤独にも我慢できなくなって、という繰り返しとも思っています。

 自分ができなくなったことだけを愚痴っていませんか?

 我慢している人を見て、自分は関係ないと思っていませんか?

 自分ができていることが当たり前だと思っていませんか?

 ちゃんと身体の動くあなたもそれでも「我慢の限界」と言えますか?


 最後に「我慢」の語源が気になったので、載せておきます。

『我慢 (がまん)』
自己を抑制すること。耐え忍ぶこと。辛抱。
≪我慢の由来・語源≫
本来は仏教語で、サンスクリット語「mana(マーナ)」の漢訳。
仏教では、自己に執着する強い自我意識「我執」から起こる心や、自分を高く見て他を軽視する思い上がりの心を「慢」と呼ぶ。このような心理状態を7つに分けて七慢というが、その一つが「我慢」。
それが転じて、我意を張ること、強情の意となり、さらに弱みを人に見せまいとする態度とみられ、近世後期ごろから現在使われている我慢の意味となった。(由来・語源辞典による)


書いているうちに、悩みこんでしまっているので、このあたりで一旦終わりにします。
ここまで「我慢して」読んでいただいてありがとうございます。

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