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優しすぎる人

 福祉の仕事をしていくなかでは、優しさはある程度必要だと思う。
 だけど、「優しすぎる」となると、話は別。

 「優しすぎる」って何だろう?
 そもそも、利用者の思いに寄り添うことが「優しい」ことなんだろうか?

 福祉職で「優しい」というのは、支援者が利用者の思いをきちんと受け止めて、実現のためにどうすればいいのかを一緒に考えて「見守る」ことではないか、と僕は思います。だから、時として利用者に提案することもある。

 すべてを受け入れて、何でも支援者が行なうことではない。

 そうなると、「優しすぎる」は「心配しすぎる」にも似ている。周りの状況を見て、困っていることはないかと探し、ちょっとでも気になることがあると「手伝いましょうか」「やりましょうか」と手が出ている。利用者は何も言ってはいないのに、やってあげたことで満足している。

「優しい」と「優しすぎる」の境目

 僕が思うに、「優しすぎる」ことは、金銭が絡んでいることも「いいよ、いいよ」となってしまっていたり、事務所に黙って支援をしているような状態だと思う。

 優しすぎる人は、とことん優しいひとで、利用者からは好かれるけれど、「やってあげたい」という思いが強く、職員としては、少し面倒臭い。

 優しい人は、優しく言う時と厳しく言う時があり、利用者へのアドバイスが多く、見守る人で、利用者や職員にも安心感を与える人。

「優しさ」の方向

 優しくする時には、見返りを気にしてはいけない。優しくしたから、相手が何かしてくれるわけではない。そんなことを考えていたら、優しさが優しさを超えて「偽善」になってしまうような気がします。

 お互いに優しさのベクトルが同じ方向に向いていればいいが、力量が違ってたり、向く方向が違っていると、優しさではなく、「我慢」や「押し売り」になってしまう。

「優しすぎる」と言われていた僕の失敗

 それは「押しに弱い」ことである。困っていることがあり、頼まれたら、10秒後には「OK」を出してしまう。

 それが、お金に関する事でも、である。

「買ってきてくれ」
「払ってきてくれ」
「貸してくれ」

 と言われてしまったこともある。時と場合によりますが、悩みながらも、応じてしまったこともあります。

 何故、応じてしまったのか?

 嫌われてしまうかもしれないという思いもあるが、「自分は優しいから、やらないといけない」と思い込んでいたのかもしれません。

 話を戻して、

 一度、応じてしまったから、やめてはいけないと思い、ズルズルと引きずってしまい、止めるタイミングが分からなくなってしまう。

 何でも行なうことが「優しさではない」ことに気づくのは、もう少し後の事であり、一人だけの問題ではなくなった時かもしれない。

優しすぎることからの脱却

 要するに「自分のできることと、できないこと」をきちんと把握することから始まる。優しすぎると、自分にはできないことも「(何とか)できます!」とすぐに言ってしまうが、そうならないように少し考えてみる。

 「何でもやる」ことが、福祉の職場では、利用者のことを見ていない、よく理解していない、と思われることがある。利用者の状況、身体機能などをふまえた支援計画などをきちんと把握していれば、「何でもやる」ことにはならないはずだと思う。
 ただ、分かっていながらも、やってしまうとしたら、使命感というか、透明な支援計画の向こうに利用者が見えてしまうからだと思います。「透明」と書いたのは、書かれているとしても文字が薄くなって分からなくなっている状態。

最後に、

優しさを考えてみると、今だけでなく、未来につながるように、利用者の自己決定を支援していくことが必要だと思います。

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