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気味悪いいいぃぃぃ『ロブスター』〜これはアナーキズムを希求する映画なのか?

『哀れなるものたち』が割と面白かったので、ヨルゴス・ランティモス監督の過去作品を振り返っておこうかと、まずは『ロブスター』を観ることにした。

これは1年くらい前に観始めてすぐに止めて放置してあったのを思い出したこともあったからだ。

ところが、なんだか知っているよう話が続く。
途中、うろ覚えの場面もあるのだけど、何となく観たような。。。
そしてラストシーンに至るところで、はたと気付いた。

「やっぱり1回観てるやん」

どうして1回観たことを忘れていたんだろう。

観たことは覚えているけれど、細かいところはあんまり覚えてないなぁ、最後どうなるんだっけ?

というようなことはたまにある。
いや、よくある。

しかし、観ていたことすら覚えていないなんてあんまりないぞ。
話がおぞましすぎて、それくらい記憶から消したかったのか。
もしくは、おぞましすぎて途中からわざと集中しないように横目で観ていたのか。
どちらもありそうだな。

なので、今回は2回目の視聴なのだけど、やはりなんとも居心地の悪い、気味の悪い映画だった。

*このあと、ネタバレ含みます。まだ観ていない方はご注意ください。

ヨルゴス監督は確かギリシャ人でしたよね。
そして、この映画はアイルランド、イギリス、ギリシャ、フランス、オランダ、アメリカの合作だという。
6ヶ国の合作映画ってどういう体制なんだろう、不思議だ。

そんな欧米6ヶ国合同で作った映画は近未来を舞台にした、だけど科学技術なんてちっとも出てこない近未来感の全くない、むしろ少し昔の話のような社会なのだけれど、これはやっぱりSF映画ということになるんだろうな。
SF映画でないと、どうやって人間を動物に変えるのか?
動物に変える部屋というのが入口ドアだけちらりと出てきたから、何かの機械があるんだろう。

社会はカップル=番い(つがい)だけで運営されていて、独身者がいないように国家権力は常に監視して、独身者は捕獲され、カップル養成所のような施設=ホテルに連れてこられる。
45日間の滞在中に番いの相手を見つけられないと、動物にされて森に放たれるという。

だからといって、誰でも適当に選んでよいという訳ではなくて、パートナーは
「同じ特徴を持っている」必要がある。
そのことを数週間、同じ部屋さらにクルーズ船で生することで、間違いがないか、本当にパートナーとして適切なのかを試験期間を設けて厳密にチェックされる。

こうした子供を産むためのシステムは社会を継続させるためのものなのか。
番いでないと人として暮らしてはいけないというのは、少子化対策が行き着いた先の未来のやむを得ないシステムということなのだろうか?
まさに。ディストピア

そう考えると、酪農も仕事だとはいえ人間が動物を飼育するときに番いにするというのも乱暴な話なんだな。

主人公のデイヴィッドは犬になってしまった兄を飼っている。
兄と一緒に施設に入った彼はどうも人間関係を築くのが苦手なタイプのようで、どうもこのシステムそのものに最初からしっくりきていない。

施設は基本的に自由に過ごしながらパートナーを探すのだが、夜になると森にバスで連れていかれ、逃走している独身者をライフル銃で捕獲させられる。
独身者1人捕獲につき1日滞在日が延期されるのだ。
おぞましい。

あまり乗り気ではなかったデイヴィッドも同じようなタイプの寡黙で誰も寄せ付けようとしない女性を「ショートヘアも好きだから」という理由でパートナーに選ぶ。
しかし、彼女は寡黙な訳ではなく単にあまりに冷酷でサイコと言ってもよい人間だった。
ある夜、犬になったデイヴィッドの兄を蹴り殺し、さぁどうだこれでも大丈夫か?とデイヴィッドを試すようにそのことを報告する。
最初はなんとか冷静を装っていたデイヴィッドも血溜まりで事切れている兄=犬の姿をみてひどく動揺し、、最後は彼女をライフル銃で気絶させ動物に変えてしまう。

施設にいられなくなったデイヴィッドは森へ逃げ、森で暮らす組織に入ることになる。
この現行制度に逆らうためのレジスタンス組織は、独身者であることをこそ良きこととし、唯一の反政府活動としては
「一緒に暮らしているパートナー同士を、相手へ不審感を持たせるように仕向ける」
(そして別れさせる)
というだけのことだ。

国家権力を転覆させるわけではない。
彼らの活動だけだと、森の動物が増えるだけだと思うのだが、それでもいいのだろうか。
それもそのはず、レジスタンスのリーダーの女性はただただ誰かと愛し合ってパートナーになるというその行動を激しき忌み嫌い、パートナーとして暮らしている人々を憎んでいる、何かに(誰かに?)仕返しをしているような感じなのだ。
(おそらく)そんな小さいモチベーションなのだから、それがまた気持ち悪い。
このリーダーを演じるレア・セドゥが本当にハマり役で嫌なやつなのだ。

森で暮らすうちにディヴィッドははじめて「この人と一緒にいたい」と心から思える女性と出会い、彼女も同じ気持ちだと分かり相思相愛になるのだが、それは組織の掟に背くことだというのがなんとも皮肉だ。

2人はこっそり森を出て町で一緒に暮らそうと作戦を練るが嫉妬深いリーダーに勘づかれて、彼女は失明させられてしまう。
それってどういうこと?
ということなのだが、とにかく眼科で失明手術をされてしまう。

それでも、ディヴィッドは彼女を気遣い愛し、最後はリーダーに仕返しをして、2人で町へ逃亡する。

最後もまたどうしてそうなるの?ということなのだけど、デイヴィッドも自身でナイフで目に傷をつけて失明しようとするところで映画は終わる。
本当のパートナーになるために、彼らの特徴=目が見えない、を実現するための行動なのだろうが。
それはシステムとして決まりなのか、デイヴィッドが強迫観念的にそう思っているだけなのかがはっきりしない。
施設の支配人だった女性と夫は特に同じ特徴は持っていなさそうだったので、きっとディヴィッド自身の思い込みなのだろうと解釈したが、それがまた気味が悪い話。

そんな感じで全編が気味の悪い、居心地の悪い設定や場面が次から次へと出てくる。
統制社会はそれがどんな目的を持ったものであったとしても、やっぱり嫌だなとつくづく思った。
それが国家権力に支配されている体制であっても、自由な独立を気取ったようなレジスタンス組織であったとしても、やはり組織である以上、そこには誰かが指揮をして、何らかのルールや統制のもとに運営されている。

それに抵抗するということなのだから、つまりはこの映画はアナーキズムを希求する映画ということになるのだろうか。
もしくは僕自身がアナーキズムを求めているのだろうか。

<了>

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