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映画の感想言ってもいいよね?〜新書「映画評論家への逆襲」を読んで

自由時間の大半は、映画を観たり音楽を聴いたりしているが、本を読むのも好きなので、映画の本や音楽の本を読んだりするのも大好きだ。

先日、図書館にぶらっと行ったら、映画関連コーナーにあった「映画評論家への逆襲」(小学館新書)が面白そうだったので借りてきて読んだ。

2021年のまさにパンデミック中に出版された本で、4人の映画脚本家・監督がミニシアターを応援するために、映画について色々なテーマで語るトークイベントを開催されていて、その対談を1冊にまとめたものみたいです。

前書きを書かれているのが、井上淳一さんなので一応発起人ということになるのだろうか。
残りの3人が荒井晴彦さん、森達也さん、白石和彌さん。
面白いのが、4人がだいたいそれぞれ10歳違いくらいのご年齢で、荒井さんの70代を筆頭に、森さん60代、井上さん50代、白石さん40代と、
世代による映画感の違いのようなものもあるのかな、とか。

なんでこの本が面白そうと思ったかというと、このように書かれていたからである。

映画を作る側から、映画評論家、そしてSNSで映画感想文を垂れ流すモノ言う「観客」への逆襲である

怖っ!
まさに我々のようなnoteなんかのブログやSNSで映画の感想を書き散らかしている一般人についてじゃないか。
どんだけ説教されるんだろう、でも本の中から文字で罵倒されるくらいだったら、まぁいいかと興味津々で読んでみた。

1章から7章まで、1回のトークイベントが1章分に相当していて、
それぞれについて備忘録みたいな感想を書いておこう。

***

「仁義なき戦い」の回

実はこの手の昭和のヤクザ映画はちょっと苦手であまりちゃんと観たことがない。
僕が育った大阪の町ってリアルにこんな人が多かったせいもあるかも。

「仁義なき戦い」はシリーズ化されていて、当時大ヒットした作品。
いくらヒットするからっていっても、昭和の時代感が今とは全然違っていたとしても、この手の反社会勢力を舞台にした映画を何の意図もなく何作も作らないだろうと思っていたが、なるほど!そういうことだったのね、と納得したのがこんな一節。

任侠映画はだいたい刑務所から出てくると組は変質してっていうパターン、主人公は権力とくっついて金儲け走る組に殴り込む、優れた任侠映画には、そんな近代に対抗する抵抗みたいな感じがあるよね

つまり、「仁義なき戦い」でやろうとしていたのは戦争映画だと。
なるほど、ゾンビ映画も一種の風刺映画だったようにヤクザ映画の形を借りた反戦映画だったのか。
改めて観てみようかな、と思った。

ポン・ジュノ監督の回

流石にプロの皆さん、そんな見方は全然気づかなかったなぁ、と思ったのが、
「ポン・ジュノ監督は定型的な物語をものすごく拒否する」
という説。

是枝監督の「万引き家族」やケンローチ監督の一連の作品と並べられる機会の多かった「パラサイト 半地下の家族」だけど、根本的には違うということ。

格差社会を本当に批評するのであれば、あんなに家族は一致団結しない。格差社会はまず家族が崩壊する

確かに万引き家族もバラバラになった家族を虚構の上でもなんとか取り戻そうとしている作品だし、同時期のケン・ローチ監督作品「家族を想うとき」も家族がバラバラになりそうなところを父親が踏ん張っている映画だ。
確かに日々の生活に追われていると家族団らんの時間なんてなかなか取れなかったり、核家族や片親家庭が多くてそもそも家族という枠組が崩壊しつつあるかもしれない。

若松孝二監督の回

荒井晴彦さんはどうも一言多い方のようだけど、同時代を一緒だった若松孝二監督をテーマにしたこの回ではその傾向が強かったみたいだ。
特に、白石和彌監督、井上淳一脚本の「止められるか、俺たちを」について、難癖としか思えないことをずっと言っていて、それって要は
「その時をリアルタイムで一緒にいた当事者の俺になんで声をかけて一緒に作らせないんだ」
とゴネているようにしか聞こえなくて読んでいて辛くなった。
本当はこうだった、という話ばかりをされているのだが、それだって当事者目線なので本当の事かなんてわからないし。
他の3人も、だったら荒井さん書きましょうよ、としきりに吹っかけるのだけど、それにはのらりくらりと乗ってこない。
うーん、なんだかな。

憲法映画論

憲法とかとは関係がないが、なるほどと思ったのは次の一節。

欠落しているからこそ、その欠落したものを想像させる
ミロのヴィーナスも両腕がもしあったら今のような評価になっていただろうか?両腕がないからこそミロのヴィーナスは芸術として大きな価値を持った


デニス・ホッパーとアメリカン・ニューシネマ

アメリカンニューシネマとは何か?
Wikipediaから抜粋してみる。

アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカでベトナム戦争に邁進する政治に対する、特に戦争に兵士として送られる若者層を中心とした反体制的な人間の心情を綴った映画作品群、およびその反戦ムーブメントである。

なので、時代的には小学校から中学くらいまでの間。
後半の時代の映画は、映画館でかかっていることはスクリーンやロードショーなどの映画雑誌や映画館の上映告知などでタイトルは知っていたくらいの感じで、映画館で見るには少し年齢が若すぎた。
大体がテレビ放映で観たものがほとんど。
なにせ、当時はテレビで夜9時から映画をかける番組が毎週4つもあった。
月曜ロードショー、水曜(金曜)ロードショー、日曜洋画劇場、ゴールデン洋画劇場
それぞれに名物司会者がいて「どうだ!ほうら面白いぞ!」と3倍増しくらいで宣伝していた。
特に僕が一番印象に残っているのアメリカン・ニューシネマの1本といえば、「真夜中のカーボーイ」
ジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンが主演の映画で、最後にバスでダスティン・ホフマンが死んでしまうシーンは今でも覚えている。
もう1回観たいのだけれど、廃盤になっているのかBlu-rayが入手しにくい。
「いちご白書」とか「卒業」とか、今観てもきっと面白いと思う。

あと「わらの犬」はアメリカン・ニューシネマではないのかな?
同じくダスティン・ホフマン主演の映画だけど、テレビで放映している時に「暴力シーンが怖い」という印象だけが残っている。

高倉健とイーストウッド

高倉健の出ている作品は実は「幸福の黄色いハンカチ」くらいしかちゃんと観たことがないかも。
あ、あと「野生の証明」は観たなぁ。
どちらかというと少年時代の僕は菅原文太さんの方が好きだったかなぁ。トラック野郎シリーズ好きだったからね。
父方の兄弟のおじさんに映画観に行こうか!と連れていってもらったのが「トラック野郎」だったけど、ちょっとHなシーンもあって気まずかった記憶がある。

森達也さんが言っていて、わかる!と思ったのがこの一節。

高倉健は決して演技派じゃないし、どちらかといえば表情が乏しい俳優なのだけど、でも顔の俳優なのだ

あと、荒井さんのこの話も納得

高倉健は不器用ですから、というCMでもあるように不器用を売りにしているが、あれはナルシストなんだよ。撮影中出番じゃなくても立ってるって傍迷惑だよね。

確かにそんな先輩がいたらやりにくいったらありゃしない。
上の人から率先して座ってもらわないと。

クリント・イーストウッドはね、最近の監督作品も全部観ていてすごい人だなと尊敬しているけど、なんといっても強い印象があるのは物言わぬクールなガンマン姿。「荒野の用心棒」と「夕陽のガンマン」
だってマカロニウエスタンブームだったから!
あと、ジュリアーノ・ジェンマやフランコ・ネロ、日本にはマカロニ・ウエスタンの大スターがいた。
ジュリアーノ・ジェンマなんて、スズキのジェンマという原付スクーターのCMに出ていたから。
当時のスクリーンやロードショーではマカロニ・ウエスタン作品の紹介が毎号のように出ていて、本当に穴が開くほど読んだ。
最初に買ったLPレコードもマカロニ・ウエスタンのサントラ集2枚組、まだ持っている。

何故か、荒井晴彦さんだけが終始他の3人と意見が合わない、面白いくらいに対立している。
世代の違いによるものなのかな?
それとも、わざと逆張りする人なのか?
とにかく文句つけないと気に食わないのかな、悪気ないけどそういう人いるよね。あと、ツンデレなのかもしれない。

最終章〜第7章

この最終章がある意味この本のメインテーマなのかもしれない。
そして、荒井晴彦さんの暴言も突き抜ける。

だれでも映画評論ってできちゃう。それが評論といえるどうかはわかんないけどね。(中略)
映画だけはその辺のバカが観ただけで語っている。

うーん。。
こうも言ってる。

本当の敵はSNSで感想を垂れ流してモノ言う「観客」だ。映画評論家気取りで言いたい放題の「SNS映画評論家」への逆襲だよ

はい、SNS映画感想家です。すみません。
だけど、直接の知り合いしか感想を言ってはいけないのか?

森達也さんの立ち位置には同意

基本的には自分の好きな映画、影響を受けた映画について書きたい、中略
僕はプロの批評家じゃないから、あまりネガティブなことを書きたくない

サンデー毎日で映画評を請われた際に、「けなすよ?」と言った、
というエピソードがあるが、
批評ってけなすことだけではないと思うんだけどなぁ。
まあ、映画に限らず批判したり意見をいうという土壌が日本にはない、という森達也さんや、
確かに好きな人にしか評論を発注していない、という白石和彌さんの意見は面白い。

でも荒井晴彦さんの批評とは、
「時代劇に電信柱が」とか
「関東大震災の時代に支那ではなく中国と言ってる」
とか、時代考証やそう言ったものをちゃんとやれ、ということで、それは特に批評でもなんでもないんじゃないかなぁ、と思ったり。

「1946年の太宰治の小説の映画化はボンネットバスじゃなきゃダメだ」とか
「止められるか、俺たちをで、俺の知ってるまえだの2階はバーじゃない」とか
「るろうに剣心の冒頭、鳥羽伏見の戦いが山の中はなんでだ」
とか、etc。
いやいや、映画はフィクションであって、ファンタジーかもしれないし、ノンフィクションやドキュメンタリーを撮っている訳ではないのだから、ある程度の時代考証以外の細かいところは必要ない場合もあるかもしれないし。

評価や感想ならいいんだよ、好き嫌いの話だから。
実際、ある事物を表現するのは100人いたら100通りのやり方があるのだから、それが映画や小説など創造物の世界の話なので、こうでなくちゃならん、という言い方はどうかなあと思った。
ま、自分も単に荒井晴彦さんのそういう物言いが気に食わないだけなんだけど(笑)。

昔は難しいもの、分かりにくいものにでも、「背伸び」して観たり読んだりして、分かろうと勉強したり食らいついていった
今はそういう文化がない
わかりやすいもの、みんなが見ているものに飛びつく
作る側も誰でも分かるもの、大衆に迎合するものばかり作る、必然的に作品から毒は抜かれる

そして、最後の荒井晴彦さんの意見には大きく頷いた。

テレビ局が映画を作り出したから、それにいっそう拍車がかかったんだよ

その大きな分岐点が、1998年の「踊る大捜査線 The Movie」が100億円超えの興行収入をあげて大成功した時からだとあげている。
今は「メジャー」と言われるような映画の多くはテレビ局がスポンサーについていたり、制作にタッチしていたりするようだし、そういった映画には言っちゃ悪いけど、あまり碌な映画はないようにも思うし。
テレビドラマでええやん、みたいな。

なんだか字数がかなり多くなってしまったけど、映画の話とか音楽の話はなかなか文字にしにくいけど、こうやってテキストを読むのは面白いなぁ。

<了>


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