映画 『怪物』を観てきました
*以下はネタバレ含みますので未見の方はご注意下さい。
映画公開初日の金曜日から翌土曜の午前中は台風接近に伴う大雨で外出するのを控えていたため、日曜の今日午前中に観に行ってきた。
朝一番の回だったせいか、シネコンの入りは6割程度。
カンヌ脚本賞受賞はそんなに影響なかったのかな?
と思ったが、退場時には劇場ロビーが大混雑していたので、次の午後の回の入りはもっとあったのかもしれない。
今作は映画館で予告編を観た以外には何の情報も入れないで観に行ったため、こんな映画かなぁと想像して内容とは違っていて、もっと深い、複雑な映画だった。
それは観ている最中も同じで、「なるほど、そういうことかぁ」という感想が、途中でまた新しい解釈を示唆されて、最後まで「え?で結局どういうこと?」と二転三転させられた。
流石、坂元裕二脚本と言うべきか。
映画は3つのパートに分かれていて、学校での教師によるいじめ=虐待とその顛末という同じ出来事が3者の視点で繰り返し語られる。
1.児童の保護者(湊の母=安藤サクラ)の視点
2.加害者の教師(保利=永山瑛太)の視点
3.子どもたち(麦野湊=黒川宗谷、星川依里=柊木陽太)の視点
鑑賞後にはじめて知ったが、このような作りを専門用語で”羅生門構造”というらしい、勉強になった。
まさに、三者三様の視点で「いじめ」を描くことで、観客の出来事の見え方も二転三転していく。
***
最初は保護者の視点から、教師は本当に虐待をしていたのか?何故なのか?と「虐待=いじめ」があったことを前提として物語を観ることになるので、当然教師の保利(永山瑛太)が「なるほど、コイツならやりかねないな」とかなり怪しい危険な奴として描かれる。
そして、学校にその事実を確認するために乗り込む母親(安藤サクラ)をなんとかなだめすかして事態を沈静化させようとする校長(田中裕子)をはじめとする学校側の教師達ののらりくらりとした対応に、観客の我々も苛々と相当なストレスを感じさせてくれる。
ここでの校長は加害当事者の保利よりかなり危ない奴として描かれている。どうしてこんな血の通っていないロボットのような奴が校長なのか?被害者側の生徒は転校するしかないのか?
しかし、事態はそんなに簡単ではない。
教師の保利だけが一方的に悪かったのか?
ひょっとしてうちの子=湊も他の生徒に対するいじめの加害者だったのではないか?
被害者の児童はいつも一緒に遊んでいたという依里ではないか?
いや、依里は被害者なのか?彼も少し秘密を抱えていないか?
さらに、教師の虐待=いじめの問題以外にも、他の事件の謎も少しづつ提示されていく。
・校長の孫が自動車事故で亡くなったが、轢いたのは校長の夫らしいが、本当は校長自身だったのではないか?
・ビル火災は放火だったのではないか?
・保利という教師は日常的に火事のあったビルのガールズバーに出入りしていたのではないか?
・依里には何か秘密があるのではないか?彼の家庭環境はどうなっているのか?
・湊も何か心配事を抱え込んでいるのではないか?我が子の事が少し分からなくなってきた、本当のことを話して欲しい
***
事態が解明されず混沌としていったところで、教師の保利の視点でもう一度物語が語り直される。
するとどうだろう?ここからの展開が見事で、
これまでは確実にコイツは怪しい、サイコ野郎だと思っていた教師の保利がそんなにおかしな奴には見えて来なくなる。
むしろ、保利は教室内で湊と依里の間でいじめがあったことを知り、なんとか大事にならないようにしようと奮闘していたようにも描かれる。
見事に被害者と加害者が一転している。
このパートで、保利は明らかな虐待はしていなかったものの、生徒に対してパワハラとも取れるような発言をしていたような事実はあり、それは今の時代感覚でいえばやはり問題であり、彼も依然として加害者であった、という解釈が一部のレビューでされているのを読んだ。
残念ながら僕にも昭和の価値観が無意識に刷り込まれていたようで、そのような風には思えなかった。
確かに思い返せばそのように解釈出来なくもないが、そこまで保利の態度は加害だったのかなぁ、と思わずにはいれなかったのが残念だった。
さて、事態は教師の保利が一方的に悪い訳ではなかったが、学校の体面を守るために誰かが加害者となるしかなく、それは当事者の保利お前だ、という体裁のために彼が断罪される者として差し出され、
それを良しと受け入れきれない保利は校舎の屋上から身投げをするのでは、というところで終わる。
***
一時はスッキリとしそうに見えた事件の全貌が、依然として謎を多くはらんだまま、それでいいのか?と観客が宙ぶらりんになったところで、最後のパートとして子どもたちの視点で物語がみたび繰り返される。
これがいわば解決編だろうと観ていくのだが、物語はまた新たな事実を仄めかしていく。
依里は父親の家父長制的な支配下にあり、まだ小学校高学年なので決めつける訳にはいかないのだろうが、それとなく見えてきた彼のクィア的な性質を「それは病気だ、父親の俺が治してやる」と体罰を加えていたことが明らかになる。
学校に行けば行ったで、男子同級生とは馴染めずに日常的ないじめの対象となっている依里は、彼の処世術として「何事も笑ってやり過ごし無かったことにする」という地獄を生き延びようとしている。
ビル火事の放火犯もどうやら依里の仕業だったようだ。
湊は、そんな依里に対して友情以上の感情を抱いていることに少しづつ気づき、それが故に無邪気に依里とは遊べなくなっていること。
学校で依里と仲良くしていることが同級生に知られると自分もいじめの対象になってしまうことを恐れ、見て見ぬふりをするどころか、最後は加害側に回ってしまい自己嫌悪に陥ること。
自分は亡くなったラガーマンの父親のように男らしく生きられないであろうと思っていること、
「将来は湊が普通の家族を持つこと」という母親の夢も重荷になっていること。
などの彼なりのツラい事実と現実も明らかになってくる。
そして、ラストの台風シーンの夜、土砂崩れにより隠れ家だった廃電車で生き埋めになりそうになるが、明朝にはなんとか脱出することが出来、
彼ら2人は "新しく生まれ変わる"ことが出来たんじゃないか?
キラキラと輝く朝陽の中を駆け出していくところで映画は終わる。
2人は亡くなってバッドエンドなのか?それとも。。
僕は生きていて欲しい派かな。
この最後の視点での語り口はまさに是枝監督らしい、子どもたちの様子がいきいきと描き出されていた。
親の視点、教師の視点、色々あったが、子供は子供で彼らの現実という地獄を、彼らなりの考え方に基づきしっかりと生きているんだということが肯定的に描かれている。
***
最後のパートでクィア・LGBTQという要素も若干入ってきたことで、見方によってはノイズと感じられるかもしれない。
それは多分に、まだ今の時代がクィアやLGBTQなどの性的マイノリティになるものに対して特別視してしまうが故、ニュートラルに語ることが出来ないということに他ならない。
しかし、この映画はとりたてて性的マイノリティの子どもたちの生きづらさそのものをテーマにしている訳ではないと思った。
タイトルの「怪物」について、いったいどういう意味が込められているんだろう?としばらく考えていた。
「怪物」つまり、何かに対する加害的な立場、誰かを脅かすような悪意、
そういった解釈を取ることで
「結局、明確な怪物はいなかった。誰もが怪物で、誰かにとって脅威となるんだ」
という見方も出来る。
しかし、それだけでは面白くないな、という思いもあった。
そこで思ったのが、湊と依里が劇中何度か言う「怪物、だーれだ」という言葉。
上記のように「誰が悪いやつだ?」という解釈もあるが、
最後のパートで、廃電車の中で湊と依里がカードで遊んでいるシーンがある。
カードをそれぞれ一枚ずつ選んで、相手に向けてカードを見せ合い、相手のカードのヒントを言い合うことで、自分のカードのキャラクタを当てるというゲームだ。
あそこで「怪物、だーれだ」と言ってカードを見せ合うので、あれはゲームの掛け声だとわかった。
そして、このゲームのルールは
「相手が自分(のカード)を見て、どのように解釈するのか?どう見えているのか?それだけによって自分のキャラクタが決まる」
そういうものだ。
つまり、「他人から自分がどう見えているのか」が一番大事なのだ。
このことを手がかりにして、この映画ではもっと一般的な
「人が他人をどのように見ているのか、他人からどう見られているのか、
それだけが社会の一員として評価を決めるものなのか?」
「そんな他人の評価を気にして生きることはない、もっと自分に正直に自由に生きていいのではないか」
そういうメッセージを描いていたのではないかと思った。
いずれにせよこの『怪物』という作品は、これまでの是枝作品の中でも坂本裕二脚本という強力な武器を手に入れたことによって、図抜けて素晴らしい作品になったのではないかと思った。
最後に、キャストの皆さんは本当に素晴らしかった。
特に子役の2人。
なんていう逸材だろう?
依里役の柊木さんはどこかで見たことあるぞ?と思っていたら、ミステリと言う勿れで菅田将暉の演じる久能整の子供時代を演じたいた彼ですね。
湊役の黒川さんも2人とも、これから色んな作品で見られるのが楽しみです。
これからも何度か観ることになるかもしれないが、その度に新しい気づきがあるような、答えはたった一つではない本当に奥行きのある深い作品でした。
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