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昭和のドラマを観て考えた〜令和で得たものと失ったもの

タイトルにある「昭和のドラマ」とは、
山田太一さん脚本の『ふぞろいの林檎たち』というドラマのこと。

時任三郎、中井貴一、柳沢慎吾、手塚理美、石原真理子、中島唱子が主演の落ちこぼれの若者たちの青春群像劇だ。

評判がよかったので、パート4までシリーズ化された。
パート1の放映が1983年、落ちこぼれトリオは就職を目前にした大学4年生。続編のパート2が1985年、なんとか中小の会社に滑り込み、社会人2年目。
以降、パート3:1991年、パート4:1997年と続く。

ドラマの彼らは2歳年長と年齢的にに僕とさほど変わらないため、出てくるエピソードが一々身につまされるテーマで自分の話のようで、放映時からずっと追いかけてきた。

ドラマでは、パート1、2が昭和の時代設定になる。
パート3は平成になって3年、まだ昭和の香りを少し引きずっているかもしれない。

今回、久しぶりにパート2を見直して、
いかにも昭和だなぁ、今ならあり得ないなと思うような描写もかなりあった。

登場人物たちは終始喫煙している。
オフィスでも執務しながら喫煙している姿は久しぶりで新鮮だった。
あぁ、僕も入社して配属先の最初にしたことが、マイ灰皿を買いに行ったことだったなぁ、なんて。

あとは、ハラスメント関連の描写が今とは価値観が全然違う。

例えば、中井貴一扮する仲手川良雄の就職先の直属上司の課長。
室田日出男が演じているのだが、これがもうとてつもなく嫌味なパワハラ・セクハラ上司で、
なにかというと、説教しながら良雄の後頭部を持って机にぐりぐりと押し付ける。
今ならすぐに社内のハラスメント窓口かなんかに訴え出られて、速攻で処分対象になるかもしれないくらい。
今回始めてちゃんと観たという相方も「なに?こいつ!」と眉をひそめていた。

ところが、当時とは40年近く経っていて、僕の年齢がパワハラ課長や彼らの親の年齢も超えてしまっているので、
パワハラ課長や親の気持ちも分かってしまって、なんなら少しは感情移入してしまっていることに気がつき面白かった。

パワハラ課長も、表現の仕方が令和の基準で見ればかなり乱暴で、あけすけで、ハラスメント認定されるものだけれど、
課長は部下の良雄を自分の息子と重ね合わせて、課長なりの不器用なやり方で愛情を表現しているということがよく理解出来る。
そこには、上辺だけのクールを装った付き合いではなく、
「もっと自分を出して、裸でぶつかってこいよ!」
という若者たちへの憤りの気持ちも含まれている。

課長の部下に対すること以外にも、
登場人物達は、言いたいことを口に出してずけずけと言い合い、
他人の心に踏み込んでいく。
なので、友人同士でも今とは少し付き合い方の様相が違うんではないだろうか。

登場人物達が思ったことをどんどん口に出して言う、というのは山田太一脚本の特徴でもあるが、
インターネットもスマートフォンもない(ガラケーですらない!)、
昭和という時代を表しているのかもしれない。

用事がある時も、固定電話しかなく、繋がらなければ、
直接出向いて行くしかない。

SNSなんてないから、
なんでも口に出して、面と向かって話すしかない。

その結果どうなる?

今の感覚だと、図々しいとか、煩わしいとか思うかもしないけれど、
顔を見て、目を見て、話をするから、
自分が言いたいことだけを言い放つ、そんなテキストだけのコミュニケーションにはならない。
時にぶつかったりもするが、それも相手のことを思いやってのこと。

そこには優しい世界があった。

でも、それはドラマの中だけの幻想かもしれない。
当時でも、友人同士でそんな思ったことをズバズバと言い合うなんてなかったかもしれない。
だけど、昭和はそんな時代だったかもしれない、そんな時代だったなぁとも思う。

令和になって、得たものも多いけれど、
失ってしまったものも多いんじゃないか、
そんなことを昭和のドラマを観て考えていた。

<了>


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