見出し画像

「モモ」の一節から自園と保育について考える

モモの2章と聞く力

いや、おれはおれなんだ、世界中のなかで、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世のなかで大切な者なんだ。

モモ(大島かおり訳・岩波少年文庫版)

 これは、ミヒャエル・エンデの有名な児童文学「モモ」の2章に出てくる、ある男の人がモモと会ったあとに話すセリフです。彼は自分がとるに足らない存在で、いてもいなくてもいっしょ、自分の代わりはいくらでもいる、と思っていました。
 それが不思議な少女・モモに話を聞いてもらううちに、上記のように思えてきて、「自分」を取り戻すのです。近所の人たちもこぞってモモを頼り、悩みごとを聞いてもらうためにやってきます。モモはいつでも「同じ場所」でみんなを「待って」います。

 本作の2章は、相手の話をよく聞くことでその人が「もともと持っている力」を取り戻す、モモのある種の超能力を示すために描かれています。
 その人の気がすむまでじっと聞き役になって、相手の本質を引き出したり、自己肯定感を高めたりする手伝いができるモモの能力は、保育に求められている資質と似ているなと思っていました。
 加えて、モモが「いつもの場所に必ずいる」という安心感を与えていることも保育的に忘れてはいけないポイントでしょう(のちの章ではモモ不在の影響も描かれます)。

 1973年の執筆時にエンデは、紆余曲折を経てシュタイナー教育に最接近していたことが知られていますが、シュタイナー教育という枠組みを外しても、普遍的な資質として感じます。

2005年に翻訳が改訂されています。

弊園の保育に引き付けてみる

まこと保育園の入園のしおりの「子どもってどんな存在?」と題した文章の中で、こんなことが書かれています(ぜひこちらからご一読ください)。

『自分がたったひとりの「かけがえのない自分であること」と、 誰もがたったひとりの「かけがえのないその人であること」を知って、たったひとつの人生を喜んで、幸せに歩んでほしいから。 その土台づくりのお手伝いをしたいと思います。』

子どもってどんな存在? より

自信がなかった男の人が気づいたことと、この一文とは、ちょっと似ていませんか? 保育や養護の本質、人との関わりの本質を考え抜くと、近いところに着地するのかもしれません。
 弊園園長の中川も、最近リニューアルしたリクルートサイトの中で、シンプルにこう語っています。

「『人生の主人公は自分なんだ』ということを、乳幼児期にしっかり育んであげることがとっても大切だと、私たちまこと保育園では考えています(中略)そして、それは「大人も同じ」なんです」。 

 そして前述の男の人のエピソードは、こんな一節のあとに置かれていました。

モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいか思いまよっていた人は、急に自分の意志がはっきりしてきます。ひっこみじあんの人には、きゅうに目の前がひらけ、勇気が出てきます。不幸な人、なやみのある人には、希望とあかるさがわいてきます。

同上

 上記の引用部分の「モモ」を誰か信頼する人の名前やモノ、場所に置き換えてみてください。たとえ自分自身への信頼がゆらいだとしても、身近にこういう人がいたら、こういう場所があったら最高ですよね。 

 2章を通して、モモは話を聴く以外に特別なことをしていません。
 モモは相手が話すのに任せるスタンスで(無意識的な超能力とはいえ)、周囲の人をサポートしていたのです。
 おかげで冒頭の男の人は、自分らしさや自分のかけがえのなさに「自分で」気がつけました。この人以外の2章の登場人物もみな、結果としては自分で問題の解決に至っています。
 この「自分で気づく」というのは、育ちや学びにとって大切ですよね。ただ、そのためには「そう促す環境」が用意されている必要があるのです。モモの聞きくという行為はそうした人的環境ができることの一例だと言えます。

自分らしさと他者への愛(または利他)

 もうひとつ、この2章が示しているのは「自分だからといって、必ずしも自分がわかるわけではない」という事実です。
 自分はこうだという思い込みはときとして大きなパワーになりますが、「自分らしさ」というのはけっこう揺らぎやすいものです。モモに話を聞いてもらった人たちは対話を通じて、ようやく「自分らしさ」を整理できるようになりました。そうした営為は、たとえば自分探し的な一人旅では経験できません。
 周囲の人に知ってもらったり認めてもらったり、というフィルターを通して自分の良さに気づいていく。他者との関係性から「自分らしさ」が立ち上がってくる経験だって立派な自分探しです。個人的な成功体験だけが、自信と自己肯定感を高めてくれるわけではないと、2章のモモと登場人物が教えてくれています。

 そうやって得られた「自分らしさ」の手触りというのは、安易な「褒め言葉」や「(仕事による)自己実現」とは異なります。特に、冒頭で引用したセリフ「おれはおれなりに、この世のなかで大切な者なんだ」が示すように、もっと本質的な「自分を愛する」ことに繋がる、ひいては「利他」に行き着くようなマインドセットになるのではないでしょうか(”おれはおれなりに”というのがポイントですね)。
 私たちが「入園のしおり」や園長のことばを通してお伝えしたいことも同様です。

かけがえのない自分であること

 例えばエンデと同じくドイツ出身の心理学者で哲学者のエーリッヒ・フロムは、「愛するということ」ほかたくさんの著書を通じて、自分を愛することの必要性を説いています。混同されがちな、利己主義と自己愛はまったく違うものであるとも、言っています。
 自己愛については、保育や教育でも重要視されるようになった「レジリエンス」とも関連するでしょう。

原題はThe Art of Loving

 先ほどの、まこと保育園の「子どもってどんな存在?」をよく読むと、フロムが言っているような内容もさらっと書かれています。再度引用すると、
「自分がたったひとりの『かけがえのない自分であること』と、 誰もがたったひとりの『かけがえのないその人であること』を知(る)」

 これは、言い換えれば、自己愛と利他(他者愛)の関係性を書いています。
 個人的には、この「子どもってどんな存在?」という文章は、まこと保育園がめざす子ども像を超えて、自己愛が人生に及ぼす影響の大きさを端的に表していると感じていますし、好きな文章です。

 今回は「自分らしさ」と「自己愛」の観点でモモの2章を読んで、まこと保育園の考え方ともつないでみました。

 この2章だけでなく、モモ と登場人物たちとの関わり方は、保育の目を通してみても、とても示唆に富んでいると思います。5章に描かれたジジとモモの関係性や、7章に出てくる行き場を無くしてしまった子どもたちのこともまた、人的環境の話しであると考えてもよさそうです。

 名作と呼ばれる児童文学には「いろいろな読み方」ができる奥行きがありますね。年齢や経験を重ねてからの再読には、また違った味わいがあります。

(文・まこと保育園 渡邉)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?