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鬱病の虐待サバイバーが自家焙煎コーヒーショップを開業するまで③

幼少期

3歳からは母の意向で仏教系の私立の幼稚園に入学した。毎朝ブラウスと吊りスカートをはいて、鏡の前に座る。母は三人の子供たちを代わる代わるにかわいいぼんぼりのついた可愛いヘアゴムで髪をセットしてくれた。

母は私の髪をヘアブラシでときながら、あんまり強い力で引っ張るもんだから、私の頭は引っ張られるままに傾く。そうすると母に頭をピシ、とまっすぐに戻される。その繰り返しである。思い返すと、すこし居心地の悪いような、でも母の愛を独り占めできるその時間が私は好きだったのだと思う。

幼稚園の制服はいま思い返すととてつもなくかわいい。丸襟の白いシャツに夏はグレーのプリーツスカート。つば広の真っ白な帽子をかぶる。秋冬は紺色のプリーツスカートにカーディガン。ウールの丸いシルクハット。母は私を愛情深く丁寧に飾りつけた。パーマをかけた長い髪をブラシで撫で付ける。制服に合わせた白いハイソックスにも大きな白いリボンが付いている。わたしは愛を一身に受けているように感じる反面、運動の時間に半袖短パンで男の子たちに混ざって活発に跳び箱を飛ぶときがいちばん自分らしくも感じていた。

幼稚園の年中さんあたりでスカート捲りが横行した。ヤンチャな男の子がスカートを捲って走り去る。被害をうけて泣いてしまう女の子もいたりした。昔は男の子だから仕方ないなんておおらかに許されていたかもしれないが、今思えばこれも立派な性加害だし、子供のときから厳しく叱り倫理観を育てるべきなのだと思う。
だけど当時の私は、すれ違い様にスカートを捲りって男の子が走り去るのを、泣きもせずぼんやり眺めることしかできなかった。悲しいも恥ずかしいも無いのだ。内向的だったせいか、上手く自分の肉体と精神をつなぐことができないような、可愛い制服に包まれた少女の機体に乗り込んでいるような、そんな離人感があったように思う。

わたしは幼稚園で上手く女の子たちの輪に入れず友達をつくれないでいた。遠足のときレジャーシートを敷いて一人でお弁当を食べる私を見て、先生はレジャーシートを端を掴むとずるずると引っ張って女の子たちの輪に引き入れてくれた。だけどわたしはもじもじと押し黙るだけだった。

幼稚園での教育はわたしの知的好奇心の形成に大きく役立ったと思う。幼児教育ってのは重要なもので、幼稚園でクラシックの合奏をしたり、習字をしたり、英語を学んだり、漢字を書いたり。また教育熱心だったは母は小さな頃から様々な習い事に通わせ、たくさんの絵本を読み聞かせてくれた。わたしの読書習慣も、母の読み聞かせから育まれたのだと思う。


両親の離婚

順風満帆に育ったのは小学生低学年までだった。
私が8歳の頃に父と母が離婚して、まだ小さかったわたしたち姉妹をおいて母が出て行ってから、わたしの生活は少しずつ翳って行った。


父から母への暴力が先か、母が他に好きな人ができたのが先か実際のところはよく分からないが、離婚の間際は両親は毎晩のように喧嘩をしていた。父が怒って母に怒声や物を投げつけはじめると私たち姉妹はリビングの隣にある仏間に駆け込んでは喧嘩が静まるまでじっとしているのがお決まりで、母を助けられない罪悪感と恐怖、何が起こっているのか理解の出来ない状況に混乱にしながら息を殺している事しかできなかった。そうしていつも喧嘩が収まると、困ったように笑顔を浮かべる母がそっと仏間の扉を開けて私たちに謝るのだ。

母が居なくなってからも祖母がご飯を作って身の回りの世話をしてくれていたが、次第に父の暴力の矛先は私へと向いて来た。父の不条理な教えに反抗するわたしを床に押さえつけ怒鳴りつけたり、顔のすぐ隣の壁を殴りつけたりはしょっちゅうで、おかげでうちの家は穴だらけだった。
大人の男の力ってのは恐ろしいもので、床に押さえつけられると、わたしは全身の力を使って振り解こうとしてもびくともしないのだ。部屋に逃げ帰ってからも、目を閉じて意味のない抵抗をし続けることしかできなかった自分の非力さや暴利の恐ろしさに心臓がバクバクとなり続けた。わたしは子供ながらに、我が子を力でねじ伏せる父の心の弱さや暴力性に嫌悪感を抱いていた。

正義感が強く間違ったことが許せず、殴られると分かっているのに父に反抗するわたしに、姉は長女らしい物分かりの良さと諦めの混じった顔で腹が立っても黙っていればいいのに、と苦言を呈していた。そんな風に上手く生きられないわたしは中学生になる頃には男性恐怖症の鬱病患者となり週末は祖母に連れられて精神科に通っていた。

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