連続note小説『みやえこさん』②『あんずあめ』
(前回:1.『とろける』)
八月のおわり、お盆の翌週にある祭の日は、いまや年に一度、慶壱が家の外に出る日。
漁業と海運で中世から生きながらえてきたこの集落、窪の祭は、山の中腹にある神社から御神体を担いで下り、舟に乗せて祀る。防波堤が松明で縁取られ、日没が迫る頃、舟は港を出る。翌朝、人の気配がない時分に神様は引き揚げられて、お社に戻される。
港の広場には屋台が出て、地元住民と、里帰りの人々でにぎわう。神事には皆あまり興味がない。それに、観光客の姿はまるで見られない。この地域一帯のいくつかの市町村が合併し「北リアス市」となった今も、町おこしの火は盛んに炊かれているとは言い難い。
慶壱と蘭子は、幼馴染の同い年。祭の日、慶壱はいつも日暮れ近くなると、二つ年下の慶次とともに、蘭子を家まで迎えにいく。兄は洋服にビーチサンダル、弟は浴衣を着せられスニーカーを履かされて…というのは四半世紀近く前の話。
たいていの場合、蘭子はそわそわした様子をみせながら、庭先で待っている。それから、三人で港に向かう。涼しげな服装の蘭子と慶壱は、まるで夫婦がそうするように、まんなかに幼子を従えて手を引き、港に向かう。
お気に入りは、あんずあめの屋台。注文はふたつ。慶次にはあんずあめが大きすぎるから、年上の二人がそれぞれ差し出して、少し齧って満足。
この習慣も、弟の手をひく必要がなくなったあたりで、いつの間にか、かたちを変えていた。
慶壱はあまり社交的ではない性格が自我の芽生えとともに顕著になり、だんだんと周囲を遮断するようになった。中学は不登校気味ながら遅れることなく卒業し、高校は、通信制でしのいだ。慶次はいっぽうで、高校を出ると地元を離れて就職していた。
日中、慶壱が自室から出ることがなくなって、はや二十年が過ぎていた。数え成人の年に御神体を担ぐ衆にも、当たり前だが参加しなかった。
ところが集落のうち誰よりもこの祭を心待ちにしているのは、おそらく慶壱だった。いまも祭の日には、季節外れの長袖を着て、日暮れ近くなると港に向かう。
あんずあめの屋台は一度もかわらず同じ場所にあり、店主もかわらない。一つ買う。少し離れて屋台を眺め、待つ。
涼しげな服装の女性がひとり現れる。あんずあめを買い、頬張りながら振り向く。人混みを縫って視線をこちらに向けてくる。
目が合う。あんずあめを齧る。視線は互いに固定されている。
一瞬とはいえかけがえのない時間が過ぎて、慶壱は視線を逸らす。再び見やると、蘭子も蘭子であらぬ方を向いてそのまま帰っていく。
今年の夏も、これで終わり。見つめ合って、さようなら。また来年。
ひと月ほど経って。
「お父さんが亡くなったから…」
ドア越しに母からの思わぬ報せ。
「お通夜は明日、お葬式は明後日。たぶんズボン入ると思うけど黒い服は用意してあるし、ほんとうに、これだけは」
母の言葉を遮るようにドアをどんとひとつ叩き、慶壱は反応した。いつ以来だろうか、息子から母への意思表示だった。ノックの返事に、少しだけ母が喜びの色を見せたことも慶壱は感じ取れた。
「お願い、ね…」
(そうか、死んだのか)
いくら顔を合わせていなくても、同じ家に住んでいるのだから、父の気配がしないことくらい、感づいていた。言われてみれば、母が日中、家をあけていることも多かったような。
「病院に泊まってたり、着替えを取りに戻ったりね…ちょっとお母さん自身もね、看病で疲れちゃった…しばらくこっちにランちゃんがいてくれたりしたんだけど…」
(通夜というのはよくわからない。お葬式と言っていたのが死体を焼く日だよな。その日だけでいいや)
母親の声がまたいつものように疎ましく聞こえた。悲しみという感情は、慶壱にはなじみの薄いものだった。
最後に父と会話をしたのは、高校進学に際しての”お説教”が最後と記憶している。
(禿げてたな。いくつなんだろ。俺も禿げるのかな)
慶壱の部屋は、中学校で時間が止まっている。カレンダーなど貼っていないし、外部からの情報源は家族の物音と、田舎ならではの町内放送だけ。ネットも知らない。父から手渡しで貰ったサッカーボールは、外へ一度も出さないまま、床に転がっている。
母のメッセージから二晩寝て、階下へ降りた。ふだんは両親が寝静まった後か、出かけた後、とにかく誰もいないときに慶壱が降りるリビング。きょうはそこに母だけじゃなく慶次がいる。
「あぁありがとう。降りてきてくれて。じゃあ着替えて」
母の声は慶壱の耳には入らなかった。
(?)
なぜか、蘭子もいる。
(蘭子?どうして?)
さらには、小さな男の子がおとなしく座っている。
(どこの子供だ?)
混乱する。慶壱はちらりと弟を見やる。弟もそれをみとめる。言葉は交わさない。
(蘭子、泣いてる)
うつむいたまま、母と手を取り合い、すすり泣く蘭子。
慶壱の意識を置き去りにして、葬儀の場はつつがなく済んだ。
(葬式、終わり。花をおいて、線香もやったからもう充分。そんなことより、なんで蘭子が…)
ほとんど踵がはみ出しているベッドに横たわりながら、思いを巡らす。
慶次と蘭子が揃いの指輪をしているのを慶壱は見逃しておらず、まるで恋人のような距離で寄り添っていることが理解できなかった。それと、見ず知らずの幼児。蘭子があやしていた。
(あの子供はどこの子だ?)
母に事情をたしかめようと幾度も考えた慶壱だったが、その勇気がなかった。母親に話しかけることも、自分から声を発することも、時間の経過とともにそのやり方を忘れていた。
いっぽう蘭子に対する耐え難い衝動はなおも続いていて、やり場のなさに悩まされた。
(直接手紙で聞いてみるか)
慶壱は蘭子とかつて文通をしていた。衝動的に、学習机のいちばん上の引き出しを開け、便箋を取り出して卓上に置く。カチカチとシャーペンをノックし、芯を伸ばしては戻し、伸ばしては戻し。
書き出しが浮かばなかった。質問がまとまらなかった。どう聞いていいかわからなかった。なにより、恥ずかしかった。
当時やりとりした手紙はもう一段下の引き出しに全部取ってある。あのときのように気兼ねなく書いてみたいけど、いまの自分にはできない。素直になれない。時間の経過による、中途半端な心の成長が阻害した。
シャーペンを投げ出して、またベッドに横になった。
残暑を癒すエアコンの風が黴臭い。
つづく