『俺はちょっと逃げ出したくなって』

へとへとになって帰宅する

シャワーを浴びる

ビールを開ける

めったに連絡をよこさない弟から

メッセージがきている

思えば４年前

ばあちゃんの葬式以来だ

弟は同じく都内に住んでる

何の仕事かは詳しく知らない

カネの無心は困るぞと

そう思いながら

メッセージを読もうとしたら

電話が鳴った

「読んだ？」

弟からだった

「早く読んでよ」

ハンズフリーにして

改めて読み始める

「理解してくれた？」

いつもせっかちで一方的な弟は

いつにもましてきょうは

その調子が強くて

けっきょくのところ

きょう連絡をしてきたのは

俺よりも先に

結婚する旨の報告らしい

ほうおめでとうと伝え

結婚式はやるのかと訊き

どこに住むんだよなんてことを

問いかけた

「兄ちゃんと同じ会社の人なんだよ」

耳を疑った

「山本って知ってる？山本明美」

おいおいおい

同じ部署だ

「兄ちゃんのこと知ってるって」

ありふれた名前だけど

それなら間違いない

山本さんは弟と同い年

のんびりとした性格で

せっかちな弟とは対照的

だから夫婦になるなら

バランスがちょうどいいのは

たしかなんだけど

「世間て狭いよなぁ」

弟が感慨に耽る

俺は困り果てる

山本さんは実はバツ２で

連れ子はいないけど

元夫に養育費は支払ってて

それに加えて

一時期俺が山本さんと

交際関係にあったこと

そしていつのまにか

小遣いほしさに山本さんは

夜の商売をこっそり始めたこと

それと同時に何やら

黒い交際の陰が見え隠れして

俺は怖くて手を引いたこと

おかげでいまも同じ部署だけど

なんとなく気まずくて

それからよく調べてみれば

山本さんの実父は

ある業界を牛耳る企業の

重役を務めていて

各方面に睨みがきくらしい

黒い疑惑はそういうこと

っていうそんなことやあんなことを

弟は知っているのだろうか

もう籍は入れてあるらしい

なのになんだかめんどうで

まだうちの両親には

言っていないらしい

俺はちょっと逃げ出したくなって

転職エージェントに登録を始めた