『書き溜めの向こうへ』
アマチュア作家のS氏は
もっぱらネットの小説サイトに投稿して
創作欲求と承認欲求を満たしている
週に一回のペースで
3万字前後の純文学を
書き上げているから
驚きだ
もっとも食い扶持の仕事のほうは
おざなりになっているのだから
滑稽な話で
そんなS氏の一日は
ゆうに100作を超えるという
膨大な書き溜め原稿の整理から始まる
大昔に書いた作品は
サイトの下書きにすべて転記してある
さっと終わりまで書いて
あとで手直しを加えようと思っているもの
あるいは
どうも先の展開を見込めなくて
半端な状態で終わっているもの
そういった連中たちに
命を吹き込んで
一人前の完成品として
公開する
S氏はもう二度目の成人式を過ぎて久しい
書き溜めの原稿は
なかなか減らない
あぁおそらくこのままだと
死ぬまでにすべてを書き上げることが
できるかどうか
いっぽうで
新たな執筆のアイディアは
哀しいことに
まったく生まれてこない
妻はいつの頃か
出て行ってしまった
子は居ない
親とはとうの昔に
縁が切れている
友達など願い下げだ
自分ひとりが生きていくために
翻訳の仕事を細々と続けながら
書いている
これまでの半生で書き溜めた原稿が
唯一の心の拠りどころ
新しいアイディアは生まれてこない
嫌気が差したS氏は
あの尖った若い頃に戻りたくて
なにか刺激が欲しくて
行動を決意する
書き溜めをすべて削除し
サイトを退会
友達を作ろうと
街に繰り出すか
いや
着ていく服がない
恋人がほしい
無理に決まってる
カネもなければ清潔さもない
仕方がないから
寝間着姿のままで
傾く夕陽を背に浴びながら
商店街の文房具屋に
足を向ける
原稿用紙と万年筆風のボールペンを
なけなしの生活費で購入した