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神様に電話した


朝、起きたら窓の外は曇天で、私は雨を落とし終えたばかりのグレーの空を眺めながら、自分が泣きたい気持ちなのにちょっと驚いた。
ぶよぶよと涙を孕んだよくわからない思いを抱えながら、トイレの便座のうえで、さてどんな夢だったかと記憶を辿る。

ああそうだ。私は女の子とお別れをした夢を見ていたのだと、気がついた。ギザギザと下手くそに切られたおかっぱ頭の赤い吊りスカートをはいた、小さい女の子を引き取った私。少し間、一緒に生活をしていたのだが、とうとう親元へ返さなければならなくなったのだ。

お別れをしなくてはならないので、この赤いスカートの女の子とお土産屋さんに行って餞別の品を選んだ。いろいろと吟味するなか、彼女は犬とペンギンが好きなので、自分の想像力にちょっと引くぐらいブサイクな、犬のぬいぐるみ型ペンケースを見つけたのだ。彼女もそれを見て、こくりと頷く。
「4500円です」という、店員が口にするその値段にもひるんだ。こんなにブサイクなのに! だが、そこは渋るところではないと彼女のために支払った。
そして、手をつなぎながら
「さて。ママに迎えに来てって電話しなきゃだね」
と、無理に元気な声で彼女に語りかけ、空を見上げたあたりで夢は途切れたのだった。

トイレから出た私は、なぜそんな夢を見たのか少し不思議に思った。でも、この切ない感じに最近出会ったような気がして、さらに眠い頭を奮い立てて記憶の海を潜る。

そうかそうか、まさに昨日。次男(末っ子)の運動会があったのだ。
小学生最後の運動会は、記録的な台風が迫り来る中、早朝ギリギリの決断で「決行」となった。いつでも中止にできるよう、大事な演目から優先順位でプログラムが進められ、係がある私も子どももバタバタと用意をして、イレギュラーな運動会が始まったのだった。

しかし予想よりも早く雨が降り出した。せめて「表現」、つまり練習を重ねてきた踊りや組体操だけでも親たちに見せたいという先生方のご配慮で、次々と鳴らされる音楽とともに子どもたちは、冷たい霧雨のなか、精一杯の演技を見せてくれた。
そして大取りとなる、6年生の演目が始まった。組体操とダンスを組み合わせたもので、雨の中だというのに裸足で土の上に寝たり伏せたりと、見ていても大変そうだ。

笑顔で踊っている息子の姿を遠くから見ていると、毎日見ている顔のはずだが、はっきりと大人になっているのを感じた。成長期が始まったのだ。
長らく我が家の息子たちは、クラスの背の順でも一番前をマークしていて、とても幼く可愛らしく、カメラに納めやすかった(常に先頭なので)。が、今年は違った。夏を挟んで急に背が伸び出し、体が筋張って、骨格がしっかりとしてきた。
なのでまだ、あどけなさを残す笑顔で元気に踊っているのを見ると、知らずハラハラと涙が落ちてきたのであった。
「最後の小学校」だとか「6年の集大成」だとか「雨の中」や「必死で頑張る子どもの姿」などに泣けてきたのではない(頑張っていたが!)。
そうではなく。
これが最後の「子どもの姿」だなぁ、と思ったのだ。
楽しそうに、裸足ではねては跳び、退場門へと吸い込まれるように走って行った、息子。

日曜でよかった。トイレから戻った私は、ブランケットをかぶって静かに溜め込んでいた涙を流した。

朝見た夢は女の子だったが、彼女は次男、あるいは、うちにいた小さな息子たちだったのだと実感した。
もう小さな子どもは、我が家からいなくなるのだ。すぐに、男になってしまう。
背が伸びただとか、筋力がついたとか、大人の話が少しできるようになったとか、彼らの成長に一喜一憂していたが、どっときた寂しさに今更ながら気づかされた。
もう長男は、鼻水垂らした中学1年生といえども、青年期に片足を突っ込んでいる。長男が急速に男になり出したときは、まだ次男がいるからと、心のどこかに逃げ場を作っていたのだろうが、もうあとはない。
「少年時代」とのお別れのときだった。

私が電話をしようとした女の子の「ママ」とは、誰なのかはわからない。神様だったのかもしれない。
もう私がいっとき天からお預かりした「子ども」に、あれこれ手をかける時代は終わったのだ。



ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️