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どうせ満たされないんだから。


これまでの人生に何度か「この世のすべての人が、どちらかといえば幸せになって欲しいと思っている」と言ったことがあるが、わたしはずっと嘘をついていたのかもしれない。本音というものは自分でもわかっていないことの方が多くて、ほとんどの場合は外的要因によって気付かされる。否応なしに。

わたしは、この世のすべての人が、どちらかといえば不幸になってくれたほうが助かる。もちろん人類の不幸を積極的に願っているわけではないが、冒頭で書いたように万人に幸せになってほしいとはまったく思っていない。まあ、全ての人が"100%幸せ"でも"100%不幸"でも、行き着く先は同じディストピアな気もするが、全人類が満たされている世界なんて興味がない、と思っているらしい。嫌な性格だ。


「足るを知る」はわたしが好きな言葉の中でも上位に位置するものだが、同時に「足らないを愉しむ」ことも生きる上でとても大切なことだと思っている。どうせ満たされないんだから、理想と現実の溝に溜まった水で遊べるひとになりたい。死ぬまで拭えないであろう空虚感と絶望とお友達になって「今日もやっぱり足らないね〜」とボヤきたい。

たとえば、仕事がつまらないと思う日が続いたり、意味もなく大好きな彼に冷たい態度を取った自分のことを責めたり、夜中ふと玄関の鍵を閉めた覚えがないことに気づいて不安に感じたり、季節もののフラペチーノや化粧品の情報に踊らされている自分が恥ずかしくなったり、重要な連絡に対する返信をしていないことに気づいたり、それでもやるべきことを片付ける気になれない自分のやる気のなさに嫌気が差したりするようなことが起こると、この先何十年も同じことを繰り返して生きていくことが心底嫌になる。手元に「人生やめるボタン」があれば0.1秒で押す、と最初に思ったのは13歳の頃だった。それまでは生きることが嫌でもやめたいとは思わなかった。「思春期あるあるの悩みだよね。おとなになったらできることが増えて楽しくなるよ」と声をかけたおとなたちはマジで、本気で、そう思っていたのだろうか。わたしだったら「満たされることなんてないからどうにか生きていける術を手に入れるんだね」と言っちゃう。嫌なおとなになったもんだ。

結局わたしたちは、足らないに苦しめられながら、足らないを愉しむことしかできない。首絞めセックスと同じ。違うかな。わたしの性癖ではないけど。若い身体だったら骨格が浮き出ている方が好きだし、年齢を問わずに薄っすらと割れた腹筋に胸が踊る。そんなことはどうでもいいか。



"生きている間はどうやったって満たされない"ということを知りながらも、諦められない人たちが生み出す創作物が好きだ。「いや、諦め悪すぎだろ」と笑っていられる時間が幸せだったりする。

「幸せになることを選んでもいい」と心の底から思えるようになりたいし、「幸せになることを諦めない」と叫びたいわたしもまた、諦めの悪い奴らのうちのひとりなのだろう。


それではまた。

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