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それぞれの生存戦略で。

幼心に気づいていた、わたしが抱いている漠然とした悩みには、わかりやすい解決方法はないだろう、と。「どんな悩みか教えてごらん?」と首を突っ込んでくる大人に打ち明けると決まって、「もあちゃんはオトナになるのが周りの子よりも早いのね」と言われた。この生きづらさは加齢と共に薄まるものなんだ、と信じて、わたしはわたしなりに踏ん張って頑張って、生きてきたつもりだった。

「社会人」と呼ばれるものになって2年目に突入した。つい最近、合法的に飲酒ができるようになったというのに、もうすぐ24歳の誕生日を迎える。わたしの抱える悩みは加齢と共に複雑化し、生きづらさも増した。どれだけ学んでも調べても、わからないことはわからないらしい。おとなになるにつれて、この世のほとんどの問いには「こたえ」がないのだと知った。人間が作り上げた社会は、理屈では説明できない"よくわからないルール"と"都合の良い常識"で固められているのだと察した。幼い頃に「すごい!」と思っていたおとなたちは案外しょうもなかった。物知り顔で正義を語る奴らほど、見えない場所で無差別に人を傷つけていた。そして、大人と呼ばれるもののほとんどは薄汚れた生物だった。

「わからないこと」は考えないように、端に端に追いやった。「難しいこと」の「こたえ」を知らないのは恥ずかしいから、笑って誤魔化してやり過ごした。「気持ちが悪い」ものは、まとめて「障害」だと「区別」した。

「いまの子は大変よね、”成功”している人たちの生活が目に見えて。SNSを通じて受け取れる、いろんな人の自己誇示を現実だと捉えて生活しているんだもんね。」たしかに生まれた時代も悪かったのかもしれない。だからといって利便性が低くてネットもnoteもない時代に生まれたかったとは思わない。どの時代に生まれていたって結局、何かしらの生きづらさを抱えていた人間は少なくなかったと思う。見たくないものまで見える。知りたくない情報まで耳に入る。「わかりやすい」ことに飛びつく人たちを哀れだと笑ったわたしもまた、同じ人間だった。悔しい。人間に殺される運命でもいいから、蚊とかヤモリとかに生まれたかった。できれば猫が良いけれど、その希望はあまりにも傲慢だと思うので大声では言えない。


流行りの洋服やコンテンツに飛びつける人たち、早い美味い便利をお金で買おうとする人たち、募金は偽善だと言う人たち、2年でスマホを買い替える人たちは、ぜんぶ全部人間だった。地球からみれば小さく愚かな生物の威勢に揉まれて生きるのが「疲れる」わたしは、わたしの方が間違っているのだろうか。

数日に1回このような独り言をnoteに書くことでしか生命を伸ばせないひともいる。こんなわたしでも、現実世界では「まとも」な顔して頑張っている。そんなわたしのことをわたしはまだ好きにはなれないけれど、せめて23年間(もうすぐ24年間)踏ん張って生きてきたことについては褒めてあげたいと思う。


それではまた。

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