クリスチャンとしてプライド月間に思うこと
わたしのインターンが終わりに近付き、ハワイを去る日が近付く頃、日本人学生夫婦の家に招かれた。同じキャンパス内に居るにも関わらず、学科が違うためしばらく会うことがなかったので、食事でもしながら積もり積もった話をしようという会だった。
そこで旦那さんの方から言われた、忘れられない一言がある。
「ごんぱちは男に興味が無いんだと思ってた!」
ハワイの田舎の小さな大学で、在籍学生数2000名の中に日本人は当時80名ほど。誰と誰が付き合ったなどという話は瞬く間に広がるコミュニティの中で、わたしの浮いた話を聞かないということでそのような憶測がされていたらしい。
わたしはいわゆるストレート。自分自身は心身ともに女性だと思っているし、恋愛対象は男性だ。確かに大学在学中に誰とも彼氏彼女の関係になることはなかったけれども、お誘いを受けたことは何度かあるし、お誘いすることもそれなりにあった。どちらにしてもデートに関することは親しい人にしか話さなかった。
うちの大学は特殊で、既婚学生寮なるものがあり、既婚学生の友人もそれなりに居た。そのうちの多くが「彼氏つくりなよ〜!」「就活なんてしないで結婚したら?」「〇〇くん(適当に思いついた彼女なしの人)はどう?」などと、わたしの意思を気にかけもしない言葉をかけられたのが軽くトラウマになった。それ以降既婚学生寮の敷地になるべく入らないキャンパスライフを送っていた。というわけで、当然彼の耳にわたしの恋愛事情なんて届くはずがないのだ。
6月がLGBT History Monthだということを今週初めて知った。アメリカの大学の文化人類学専攻なのに不甲斐ない…
多くのキリスト教は、基本的に同性婚に反対している。なぜなら「神は男と女をつくり、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ』と言った」と創世記に書いてあるから。
わたしは同性婚そのものには賛成も反対も主張しない。制度ができたところで、その後は個人の選択だと思うから。そして聖書の教えが絶対だというのなら、後続の文言いわく男女で結婚をしながら子どもを持たない人および持てない人も咎められてしまうと思うから。
お呼ばれした先の旦那さんは、おそらくわたしがこのクリスチャンコミュニティの中で少数派であるために生きづらさを感じているのではないかと想像力を駆使して配慮してくれていたんだと思う。だとしたら口に出さないでほしかった。ただ単にモテなかっただけだから。余計に傷えぐられたわ。ぴえん
欧米のクリスチャンの友達は、教会が同性婚に賛同しないとしても、LGBTQ+ の啓発をSNSでシェアしたりしている。同じ人間だもの。自分がどんな性に分類されようと、人権は等しく認められるべきだから。
わたしのSNSアカウントの一つは、9割クリスチャンの人と繋がっている。そのうちの半分くらいが日本人だと思う。そのアカウントで欧米の友達のようにレインボーマークをシェアしたりしてたら、親世代の数名から遠回しなお説教のメッセージが届く気がする。
他の記事でも何度も言っているが、日本には素晴らしい文化がある。しかしながら、日本人はやはり自分と違う人の性質や新しい物事を受け入れることに時間がとてもかかる。それを踏まえて、日本のクリスチャンはとにかく真面目で熱心である。悪く言うととても頭が硬い。
もう数年前の話になるが、とある日本人のクリスチャンの知人がSNS上で、「同性愛者は何がしたいんだろう。同性婚をしたところで子どもも産めないのに」というような投稿をしたのを見たことがある。わたしはそのコメントを見て衝撃を受けたし悲しくなった。
その後のコメント欄がどうなっていたかあまり覚えていないが、この意見に全面同意した人はいなかったはず。断りを入れておくと、クリスチャン全てが同性愛者に対して否定的なわけではない。というかこんな表立って否定する人は希少。
教会としては同性婚には賛同していない。しかし、同性愛者を排除する動きを推奨することは決して無い。「人は皆等しく神の子であり、皆不完全である」から。
当時その知人に、もしLGBTの親族や知り合いが居たら、きっとこんな発言はできなかったと思う。もうだいぶ前の話だし、同性婚を主張する人から嫌なことでもされたのかな、とだけ思うようにしておく。
世界各地で同性婚の法改正が進んでいる。それにあえて追いつこうとしない日本が遅れているかどうかについては、コメントしないでおく。そもそも異性間の結婚・離婚ですら不便ということで、法律上の結婚をしないままの人も多い。
今住んでいるマレーシアはイスラム国家。同性婚はおろか、イスラム教と異教徒同士の結婚も認められない。もちろんそんな国にもLGBTQは存在するし、イスラム教徒とそうでない人の未婚のカップルも存在する。マレーシアは緩い方だと思うが、イスラム教信者が同性愛の罪により処刑される地域もあるらしい。
わたしはキリスト教の教えには感謝しているし、以前のような”熱心さ“は太平洋の真ん中らへんに置いてきてしまったが、今後もその教えに基づいて生きていきたいとは思っている。そして人を男と女とに造った神様の存在も信じている。自分は豚肉を栄養のために食べ続けるけど、イスラム教の教えや文化もそれなりに知って尊重したいと思っている。宗教は「いい教え」のはずなのに、いつもどこかで誰かを苦しめる材料になっているのが悲しい。
聖書の文字通りを鵜呑みにするのではなく、「What would Jesus do?(イエス様ならどうするか?)」という考えをもとに行動しなさいと教会の人に教えられたことがある。そうすれば、宗教が誰かを苦しめるなんてことはなくなるはずだと信じている。イスラム教ならアッラーなのか、ムハンマドなのか、「あの方ならどうする?」と想像するのだろうか。そう考えるくせがついたら、自分と異なる考え、信条、セクシャリティを持った人に不快な思いをさせることも少なくなるはず。
わたしが1.3億人しか理解できない日本語書いたしがない記事に世界を動かす力はほとんどないが、通りすがりのどなたかの身近な人でも救ってあげられたらいいなと思いながら。
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