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自分を許すということ

年明けにこういう記事を書きました。

最近もうひとつ、「許す」という言葉も自分のキーワードになっています。

「貝を磨く人」という曲に、今回のレコーディングにあたってCメロを追加しました。

追加した部分はこんな感じ。

「漆に重なるあなたの願い その目で見る日は叶わずとも
 自分を許し 人を慈しめ
 雪が降る 貝の欠片の上 この地の風は冷たかろう
 時に無慈悲に 続くいのち」

「自分を許し」ってフレーズがなぜかスンって出てきて、いやここは許すのは自分じゃなくて人(他者)だよなぁって何度も何度も思ったんだけど、「自分を許し」の方がどうしてもしっくりきた。

何でだろうって考えると、中尊寺金色堂を実際に見て、短い旅の中だったけど歴史の重さや岩手の自然の厳しさに触れて、自分の無力さゆえ誰かを救うことができずにそれが足枷になったまま生きざるを得ない人の姿が浮かび、その人たちがどうか自分を許せているといいなって思ったから。

贖罪をするならば自分を責めることではなく、その想いは人を慈しむことに使ってほしい。あなただけのせいじゃないよ、誰もどうしようもなかったんだよって。

先日新潟・酒田・仙台とライブで周らせて頂きました。ありがたいことに行く度に知っている顔が増えて、一歩踏み込んだお付き合いをすることも増えてきました。

今回、「人の優しさ」と表現するにはあまりにも軽いくらい、様々な方に頼らせて甘えさせてもらいました。

実は私はこれまで、距離感を間違えてしまいそうなのと貸しを作るみたいなのが嫌という理由で、損得勘定なしに人に頼るのが苦手でした。(それでも周りの方にだいぶ良くして頂いているという自覚はあり、いい意味で優しさを押し付けてくれている方にはただただ感謝)

深掘りすると、私が何かをしてもらえるのはキラキラしたり気を遣っているからで、キラキラしてなきゃ受け取るの申し訳ないって思ってたからだし(別にキラキラも気遣いもしてないから大きな勘違い)、何らかの形で返さなきゃいけないんじゃないか、でも返すものも自信も何もないというジレンマに陥ってました。

「許す」ってワードについて考え始めてから今回は素直に受け取れて、「あぁもしかして今までもこうして近くで手を差し伸べてくれたり見守ってくれていた人はいたのに、私が勘違いしてたり頑ななせいで気付かなかったのかもしれない」って思いました。

勘違いに気付いたついでに、最近は年齢を堂々と言うようにしたり(隠していたわけじゃなかったけどちょっと引け目を感じていた)嫌なことをはっきり表すようにしたり、服やメイクを必要以上に盛ったり無理しないようにしてますが、なんだほとんどの人は変わらないじゃん。

調子のいい時はついつい「役に立ちたい」「お返ししたい」「社会に貢献したい」など思いがちなんですが、冷静に「私ごときが宇宙や地球規模に対してそんな影響力ある人間かい??」というのも近頃は問うようにしています。

諦めたり投げやりなのではなく、そこに執着しすぎると役に立たない自分が許せなくなりそうで、そうすると役に立たない他者のことも許せなくなりそうで、優生思想に行きつきかねないと思ったので冷静に慎重に。

今回はあくまで「自分を許す」がテーマの投稿です。誰かや社会など自分の外側に対し許せないものを抱えている人の想いを否定しているものではありません。私だってあるし。

最後に埋め込みめっちゃ多くてごめん。この投稿には歌詞の説明で「決して許したり受け入れたわけじゃないけど」って書いたばっかりで矛盾って思うかもしれないですが、当初(詞の世界の中での)よりはやるせなさ的なものは手放せているようなイメージです。


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