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「青年海外協力隊のいま」#7 ベナンでコミュニティ開発!坂越圭名子

青年海外協力隊の「これまで」と「いま」を紹介するコーナー
「青年海外協力隊のいま」

第7回はベナン共和国でコミュニティ開発隊員として活動した坂越圭名子(さかごし かなこ)さん!

筑波大学で文化人類学を研究した後、社会人になり、下着メーカーのワコールからの現職参加で青年海外協力隊・コミュニティ開発隊員になった坂越さん。

「壮大な遠回り」をしながら「アフリカに住む」という夢に向かっている彼女の姿を7000字のインタビュー記事で紹介します。

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アフリカに興味を持ったきっかけはなんですか?

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アフリカを好きになったのは高校生の時です。高校の地理の先生がすごいおもしろい方だったんですよね。

その先生自身が文化人類学者になりたかった方で、文化に関する授業がとても面白かったです。例えば、世界の食材を題材にした授業中に、実際にキャッサバを調理して食べさせてくれるような先生でした。

先生のおかげで民族文化に興味を持ち、大阪にある国立民族学博物館の友の会に入りました。会員として国立民族学博物館のアフリカ研究者のワークショップに参加し、アフリカの太鼓をやったり、アフリカのごはんを食べてたりしました。

次第にアフリカに夢中になり、大学でアフリカ文化の勉強をしたいと考えるようになりました。

大学時代はどんな風に過ごしていましたか?

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アフリカにずっと興味はありましたが、それ以外の地域のことも勉強しました。

文化と宗教とは切っても切れない関係があるので、宗教に興味がありました。富山県、立山の山頂にある神社に住み込んでフィールドワークをしたこともあります。

また、卒業論文の主査の先生は当時インドをフィールドにされていたので、その影響でインドの文献にも数多く当たりました。もともと興味があったアフリカをフィールドにはしませんでしたが、論文や文献を読みふけった大学時代でした。

その結果なのか、この頃から「アフリカに住みたい」と思うようになりました。

学生の頃、研究者以外にアフリカに住む手段がわからず、大学院に残って研究者になる道も検討しました。一方で、私は好奇心が旺盛で一つのことを突き詰める研究者の仕事は厳しいかもしれない、という迷いもありました。

いろいろと迷った結果、まずは世の中を広く知ろうと就職をすることに決めました。

日本政策金融公庫に就職したのはなぜですか?

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日本政策金融公庫を選んだのは、就職活動で検討した仕事の中で「人の生活」に最も近く、深く関われる仕事だったからです。

海外と関わる仕事も考えましたが、それよりも「人の生活」が見える職場を優先しました。

あと、ある程度仕事をやったら大学院に戻ろうとも思っていたので、どうせ就職するなら、仕事じゃないとやらないような苦手なことを選んだというのもあります(笑)

編集メモ:日本政策金融公庫とは?

日本政策金融公庫(以下、日本公庫)は株式会社です。ただし一般にある営利を求める株式会社と違い、日本政府が100%出資する株式会社です。
政府が株主の会社ですから、国の政策目的である、中小企業や小規模企業、農林水産業などの経営の成長・安定や地域経済の活性化、金融安定などを支える金融支援を行っています。

日本政策金融公庫での仕事はどうでしたか?

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今まで自分の人生で全く触れてこなかった世界は新鮮でした。

私が学生の頃に経済学などは学んでいませんでした。

今なら『半沢直樹』を見れば金融業界の想像がつくんだろうけど、当時は『ナニワ金融道』や『闇金ウシジマくん』しかなく、そういう作品は読んだことがありませんでした。

そんな私が金融の仕事に関わり、世の中でどうやってお金が貸し出されて、どうやって回収されるのか、お金がどう回っているか、たくさんのことを学びました。

また、仕事で関わるのは中小企業・個人事業が中心で、中小企業の社長やお店の方に色々と勉強させていただきました。

金融関係なんて苦手だと思ってたけど、実際に働いてみると印象は変わりました。人の生活に向き合う仕事であり、現場に行かないとわからないのは、大学のフィールドワークとなんら変わりませんでした。

結局、現場でしか物事は動いていないから、現場に行かないとわからない。現場が大切。いま振り返れば、フィールドワークを重視する大学時代の文化人類学研究と方向性は一貫してたんだと思います。

次に、ワコールに就職したのはなぜですか?

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日本政策金融公庫で働く中で、すごい技術を持っていたり、よい会社はたくさんあるのに、世の中に伝えれていないのがもったいないと感じました。

アフリカがいつまで経っても世界から未開の地として認識され、その文化の魅力や可能性が伝わらないのと同じです。

自分が情報発信のスキルを身に着ければ状況は変えられるかもしれない。広報や宣伝に関わる仕事をしようと考えたときに、タイミングよく、ワコールに広報のポストがあったので応募しました。

社内広報の部門に所属し、社内報や会社のウェブサイトの作成・編集業務を担当しました。他には、お客様とワコールとの新たな接点として設立された京都駅前の文化施設ワコールスタディホール京都の立ち上げやイベントの企画・運営に携わりました。

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その間も、ワコールにいながらアフリカと関わる仕事ができないかと、会社にアフリカ市場への進出を提案もしています。ワコールの海外進出戦略を考えると、実現はまだまだ先のことになりそうですが(笑)。

ワコールに籍を置きながら、青年海外協力隊へ!

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自分の中で「アフリカで仕事したい」、「アフリカに住みたい」という想いを強く抱えながらも、なかなか叶えられる手段が見つからず、自分の年齢ばかりが高くなっていく…。

でも、少しでも体力のあるうちに動き出して切り開かなきゃと考え、青年海外協力隊に応募することにしました。

国際協力団体の中で青年海外協力隊を選んだ理由は2つ。信頼性のあるJICAが母体であり、民間企業に在籍しながら参加できる制度があるからです。

青年海外協力隊として活動する2年間、現地でつながりをつくり、アフリカでの仕事のきっかけを見つけたい。そして、任期終了後にアフリカに戻ろうと企んでいました。

活動場所にベナンを選んだのはなぜですか?

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アフリカの中では特に西アフリカに興味がありました。

西アフリカはアフリカの中でも、まだ先進国の手が入りきっておらず、昔ながらの文化や伝統が残っていると考えたからです。

また、国立民族学博物館に出入りしていた時から細々と続けている西アフリカ発祥の「ジャンベ」という太鼓があります。ベナンで弟子入りしてジャンベをマスターしたい気持ちもありました(笑)。

ベナンはどんな国ですか?

アフリカ西部、ギニア湾に面した縦長い国です。1960年にフランスから独立しました。

日本の1/3の国土に、約1,060万人が暮らしています。国民の大半は農業に従事していて、綿花やパーム油などを栽培しています。ベナンのパイナップルは甘くて絶品です!

国民の大半がブードゥー教を崇拝しています。

西アフリカ、ベナンでの生活はいかがでしたか?

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言葉が通じない。計画断水で水が出ない。日常のバタバタはありましたが、どれも想定内で、楽しかった記憶ばかりです。

初対面ではシャイでまじめな人が多い印象のベナン人ですが、仲良くなると人懐っこくてフレンドリーなキャラクターの人が多いです。

トウモロコシの粉を練ったり、蒸したりする食材が主食です。しかし、赤飯のようなお米を使った料理や白米もあって、食べ物が口に合わないということはありませんでした。

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当然ながらクーラーはありませんが、暑かったら床にゴザを引いて寝れば涼しくて安眠です(笑)

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コミュニティ開発隊員としてどんな活動をされてましたか?

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青年海外協力隊の募集時の要請書では、女性の収入向上、生活向上が主なミッションとなっていました。コミュニティ開発隊員なので、自分でそのミッション達成に向けた課題を見つけ、仲間を募って取り組むのが活動です。

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任地では4日1回ほどのペースでマルシェ(市場)が開かれます。そこに野菜を売りに来る女性たちの意識啓発を行い、生活向上につなげようと考えはじめていました。

売り子の女性たちは、自分で育てたり農家から農作物を買ってきて、マルシェで野菜を売っています。

マルシェでは農作物が均一の価格で売られており、品質の良いものも悪いものも、決まった金額で売られています。たとえば、中型のトマトは3個で100FCFAと決まっていたら、新鮮でもしなびていても、100FCFA。

値段は一定なので、売り子側に工夫の余地が見い出せません。

マルシェの価格設定が自由になれば、それぞれが仕入れ時期や保存方法に工夫をこらし、高品質の作物を扱うことで、収入を上げられる人が出てくるのではないか、という仮説をたてました。

これから活動計画を立てる段階でしたが、COVID-19のパンデミックによる帰国となってしまったので、具体的な活動はできていません。

もし2年活動できたなら、「マルシェのルールを変えて、女性が収入を上げれるように働きかける」ことをしたかったです。

編集メモ:FCFA=西アフリカ8か国の共通通貨

西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA)の8カ国(コートジボワール、ギニアビサウ、セネガル、トーゴ、ニジェール、ブルキナファソ、ベナン、マリ)の共通通貨がFCFA。執筆時(8月17日)では、100FCFA=20円くらい。

ベナンの言葉は何語ですか?

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ベナンの公用語はフランス語です。

フランス語は学校で習いますが、家庭では民族語を話します。一定以上の年齢の女性たちはフランス語が話せない人も特に多かったです。

男女で比べると女性の方がフランス語を話せないことが多いのは、就学率と関係が深いようです。女性が学校へ行けるシステムは整ってきてますが、女性は家の手伝いをすべきという考え方も根強いようで、就学率は男性に比べて低いです。

私が一緒に活動する予定だった女性グループはフランス語があまり話せない方が多かったです。コミュニケーションをするために、ジェスチャーを使ったり、フランス語が話せる人に通訳をしてもらっていました。

また、現地語は複数あり、ベナン国内でも地域ごとにメインで使われる言語が異なります。協力隊として任国に派遣されると2~4週間ほど現地で語学研修があるのですが、ベナン隊も任地のエリアごとに4つのグループに分かれて別々の言語を学習しました。

ベナン・ブードゥー教とはどんな宗教ですか?

ベナンの国教はブードゥー教です。

ブードゥー教は教義や教典が定まっていません。現地の方に尋ねると、ブードゥー教じゃない地場宗教や精霊信仰も存在しているそうで、何がブードゥー教にあたるのか、はっきりとは理解できませんでした。

でも、道を歩いているとブードゥー教の祠を見かけたり、地域に一軒はブードゥー教の祭壇がある家もありました。かなり生活に根付いているようでした。

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儀式にはシャーマンが登場し、数珠、ベナンでは吸う人が少ないタバコ、ヤギの頭蓋骨などが使われます。それらの道具は、マルシェで売られていました。

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たまたま出会ったブードゥー教のシャーマン(珍しく若い女性)にお願いし、週一回のブードゥー教の儀式?に参加させてもらう約束をしていたのですが、結局参加することができないまま、帰国になってしまいました。

ベナン人の死生観や判断の基準にもなっているブードゥー教はとても興味深く、2年間の活動期間中にフィールドワークをし、論文にまとめてみたかったです。

編集メモ:ブードゥー教とは?

ブードゥー教の根幹は、現世と霊的世界とのダイナミックな結び付きです。 生者はやがて死者となり、死者は精霊となる。精霊たちは、さまざまに姿を変えた神そのものなのです。
儀式では、ロアと呼ばれる精霊たちを呼び出します。ロアは、祈とう師の霊的な力に呼応して一時的に生者に乗り移り、人間と神が一体になるのです。このような憑依(ひょうい)を伴う儀礼によって人々は神の恩寵に触れるのです。

帰国後はどうやって過ごしていましたか?

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ベナンでは感染者がほぼいなかったこともあり、帰国した直後は「どうせ1か月くらいで戻れるだろう」と楽観的に考えていました。

でも、COVID-19の世界的な影響は想像以上でした。医療体制が整っていないアフリカに協力隊として戻ることを断念せざるをえないことを納得するのに時間がかかりました。

「アフリカで仕事する」、「アフリカに住む」という夢をかなえる糸口とするために挑戦した協力隊なのに、振出しに戻ってしまって、どうしたらいいんだろうって途方に暮れました。

それでも、いまの自分ができる最善を尽くそうと思い、海外事業を展開している企業への転職も検討しました。しかし、協力隊と同じく、COVID-19の影響で中途採用が中止されていたり、たった3か月の海外経験ではキャリアチェンジにつなげられませんでした。転職を断念し、結局ワコールに戻ることにしました。

協力隊としてベナンの任地に戻ることはできませんが、現地の友達とはWhatsApp(海外版チャットアプリ)でつながり続けられるし、この縁は今後も大切にし続けようと思います。

これから、どうやって活動していきたいですか?

アフリカと関わるには国際協力という支援では限界があると私は思っています。

任地で生活するなかで、多くの国際協力団体の支援の形跡があるものの支援金の投入期間が終わった後に活用されていない実態を目の当たりにしたことで、その想いは強くなりました。

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現時点でベストだと考えるアフリカとの関わり方は、支援側・被支援側の双方に利益を出すことで長期間の関係性づくりが可能となるビジネス活動です。

これまで通り民間企業に所属して社内からアフリカ進出を働きかけたり、ほかの会社が最後のフロンティアとして進出するサポートができるような仕事に就くことで、ある程度のスケールメリットが得られる形でアフリカの発展に携われたらいいなぁと思っています。

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先進国の企業が進出すれば、現地の文化は否応なく影響を受け、変容をせざるを得ません。アフリカ文化ファンとしては、昔ながらの文化がいつまでも残るといいなぁとも思う一方、現地の人々が先進国のスタイルにあこがれるならば、その気持ちを止めることはできません。

ベナンでも人々は伝統的なパーニュ(アフリカ布)の衣服のほかに欧米から入ってくる中古の洋服も着ています。スマートフォンも使っています。化粧や編み髪で目指す女性の「美」の基準も先進諸国の影響を受けています。

文化や生活が変わっていくのを止めることはできません。その中で、彼ら自身が広い選択肢の中から好きなものを選び取れることがこそが、本当の「自由」だと思います。

ビジネス活動で長期的な関係を作りながらも、考えもなしにビジネス進出して文化を壊すようなことはせず、バランスを考えながら「自由」な環境をつくっていく。自分を含めたアフリカに関わるすべての人・会社・組織が意識して整える環境だと思います。

まとめ「また、大好きな西アフリカへ」

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高校からアフリカに興味がある割には、あえて学術的な世界を離れたり、ドメスティックな仕事をしたり、10年以上かけた壮大な遠回りをしてきました。

でも、協力隊の経験を経て「アフリカに住みたい、アフリカで活動したい」という夢をより強く意識するようになり、出発点に戻ってきた感じです。

今の段階では、どういったルートをたどるのか見えていませんが、なんとかして夢をかなえ、大好きな西アフリカの文化に浸りながら生活する術を見出したいと思っています。

編集後記

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今回は坂越さんに約1時間インタビューをして、編集者ミウラがベースを書き、坂越さんにもたくさんのフィードバックをいただいて記事が完成しました。本当にありがとうございました。感謝でいっぱいです。

明るくて、自分の言葉と志を持っている坂越さん。アフリカへの強い想いを持つ彼女がせっかく出発できたのに、たった3か月で帰国。本当に「途方に暮れる」ほど悩んだはずです。それでも、色んな道が閉ざされても、前に進む。きっと坂越さんはこれからも夢に向かって進み続けるのでしょう。

そんな彼女の姿を見て、いま悩んでいる人が自分の悩みを見つめ直したり、前に進む勇気が出た方がいたら、とっても嬉しいです。

最後までご覧くださって、ありがとうございました!

次回もお楽しみに!

青年海外協力隊員へ:
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そんな想いで「青年海外協力隊のいま」を連載しています。

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