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ミル「自由論」(1859)/SNSの使い方に関する19世紀からの提言

夜寝付けない時には難しそうな本を読む。今回読んだミル「自由論」もKindle Unlimitedで読めるラインアップの中で「眠くなるだろう」と思ってダウンロード。
ところが冒頭からパンチラインの連続で逆に目が覚めた。Twitterで時折見かける言い争いに対する提言が、まさか約150年前の本にあるなんて、と。

「自由論」の著者、ミルは1809年のイギリス人。当時のイギリスでは、産業革命を受け、貴族・地主の特権だった選挙権がその他の身分の人にも開放されはじめ、新しい国を統治する仕組みを模索しはじめた時期だった。そこでミルが提言したことのひとつが「支配者の利害と意志は国民の利害と意志であり、それをなすために支配者は国民によって解任できること」で、それは今の日本の政治の仕組みにも大きな影響を与えている。

ただこの「自由論」で私がいちばん心に残ったのは反対派の意見はなぜ大切かについての考察だ。

 人類の良識にとって不幸なことに、人類は間違いを犯すものであるという事実が、理論上ではかならず重視されても、じっさいの場面においてはほとんど軽視される。誰でも自分は間違えることがあると知っているのに、そのことをつねに心にとめておかねばと考える人はほとんどいない。自分も間違えることがあるとわかっていても、自分にとってかなり確実と思える意見がその一例かもしれぬと疑う人はごく少ない。

ミル「自由論」

自分が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知にひとしい。彼の言い分は正しいかもしれないし、誰も論駁できなかったかもしれない。けれども、彼もまた反対側の言い分を論駁できず、あるいは相手の言い分の中身も知らないなら、彼がどちらの言い分を選ぶにせよ、その根拠はゼロである。彼が合理的にとるべき立場は、どんな意見にたいしても判断を停止することだろう。もしそれに甘んじることができないのであれば、彼は権威の言いなりになるか、もしくは世間一般と同様に、そのとき一番魅力的に思われたほうを選ぶことになる。

ミル「自由論」

人間は間違いをおかすものであること、人間の真理の大部分は半真理にすぎないこと、あらゆる反対意見をちゃんとふまえた上でないかぎり、意見の一致は望ましいものではないこと、真理を全面的に認識する能力が人間にそなわらないかぎり、意見の多様性は悪ではなくて善であること。以上は、人間の意見にばかりでなく、人間の行為についてもあてはまる原理なのである。

ミル「自由論」

そうか、そうだよなあ、と思う。たとえば私はワーキングマザーという属性なので「女性は家庭を守るべき」的な思想にはたいそう反発するけれど、じゃあ「女性は家庭を守るべき」という思想をどういう人がどういう理由で支持しているのかを考えたことはあまりない。
もしかしたら長時間労働で身動きがとれない男性の悲痛な叫びかもしれないし、働くことが好きじゃない人が感じている社会の「女性も働こう」に対する反発なのかもしれない。何代にもわたってそういう思想で暮らしてきた人たちにとっては、そのバイアスの外に出ることが困難だからかもしれない。
「女性は家庭を守るべきなんて思想は時代錯誤だ、男尊女卑だ」、そう相手の主張に聞く耳を持たず言い続けることは、今の時代の流れの中では簡単で、ただこのやり方をしていたら、いつの時代も多数派が少数派を追いやるような世の中になってしまい、そして自分が少数派になった時に痛い目をみる。

自分が嫌だな、好きじゃないな、と思う意見についてほど背景を知ること、理解しようとすること。これを私も含めて皆が心がければ、ずいぶんとTwitterは生産的な場所になるのではないか、そんなことを思った、19世紀からの提言を受け取った夜更けだった。



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