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「わからない」の価値―他者といる技法

今朝ご紹介する本は、奥村隆さん「他者といる技法 ――コミュニケーションの社会学」です📖

マナーやかげぐちなど、他者といる際に私たちは様々な技法を用いています。

そのすばらしさと苦しみの両面を描いた1冊です。

本の中で見つけた「言葉」をテーマに、皆さんにある一冊をご紹介していく「言葉で聞く読書」📖
noteを読む時間がない方は、何か作業をしながらコチラをお聞き頂けると嬉しいです🍀


完全に理解されてしまう苦しみ

この本のおかげで、また1つ自分の「こうあるべき」を壊してもらった気がします。

それがこの考え方です💡

理解できないことが、多くの人を愛することができる仕組み

本書では、『理解の「過剰」』という表現で解説されています。

  • もし、自分のこころが全て他者に理解されたら?

  • もし、他者のこころが完全に理解できたら?

完全に理解されてしまう苦しみ、自分は深く考えたことがありませんでした。

私が私であり続けるために

完全な理解がなぜ苦痛を生むのか?というと「自由」がないからだ、と奥村さんは言います。

具体的には、自分が隠したいことも含めて、他者に完全に理解されてしまうという状況です(怖い…!)。

私が私であることは、他者に理解されないようにする仕組みがあるからこそ成り立っているだと気付かされました。

人を理解できないことで、私たちは何とか他者とともに生きていられる。

他者が「わからない」と認めるから、話せる

他者を「わかる」と思うから苦しいという視点、自分は持っていない視点でした。

「わからない」を出発点にして他者といることを模索する方法を考えたい、と奥村さんは言います。

ありふれているけど「話しあう」。
あなたのことが「わからない」と認めるから、質問し説明する。
逆に「完全な理解」が達成された「同じ人々」は、話しあうということが始まらない。

「わかる」より「わからないでいられる」

より困難で大切なのは「わかる」ための技法よりも「わからないでいられる」ようにする技法と、奥村さん。

私たちは「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき急ぎすぎてしまう。
しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。
・・・
これをもたないとき、「わからない」として乱暴な「類型」に他者をひきつけるような理解に着地する=「差別」することをしてしまったりする。
しかし、「わからないでいる」のが常態であり、そこにゆっくりといられるのなら、私たちは「なぐりあう」ことも「差別」することもずっとしなくてすむだろう。

私は「わかりあおう」に固執しすぎていたのかも、と気付かされました。

「わからない」時間の居心地の悪さのなかに少しでも長くいられること、それが結果的に多くの人を愛することができる仕組みなのかもと考えるきっかけになりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございます🍀

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