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【第3回】吉村昭 著 『黒船』


「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で夜も眠れず」…これはペリーが四隻の艦隊を率いて浦賀に来航したとき、沿道の人々の間で読まれた狂歌です。
巨大な外国船に大騒ぎする雰囲気が伝わってくるようですね。
鎖国体制に揺すぶりをかけてくる外国勢力の象徴として、「黒船」は当時の日本の人々の心に大きな印象を与えました。

今回はこれをタイトルに冠した作品を紹介します。

オランダ通詞 堀達之助の物語『黒船』

吉村昭著『黒船』は、オランダ通詞・堀達之助を主人公に幕末維新期の日本を描いた作品です。
物語はペリー艦隊来航期の外交交渉に始まり明治維新がなるまで。
達之助はその特殊な技能と運命をもって数奇な生涯を送ることになりますが、この時代の大転換の波と、どう併走するかが読みどころです。

達之助は日米和親条約締結に向けた交渉に通詞として同席、その実直な人間性からも外国公使の信頼を得ていきます。
しかし思いがけぬことで罪に問われ、入牢すること4年余り。
なんと小伝馬の揚屋で牢名主となった達之助。ここで当時勢力を持ちつつ弾圧されていた水戸の尊皇攘夷思想家たちと交流し、新たな見識を得ることになります。
釈放後は一転、幕府の蕃書調所において日本初の本格的な英和辞書を編纂。
その能力を発揮していきますが、ただし出世コースからは外れてしまって…。
元治二年(1865年)、京都を中心に倒幕の気運が高まってきたこの時代、達之助は函館への勤務を命じられ、そのまま江戸・徳川体制の終わりを迎えることとなりました。

達之助はいつだって自らの職業倫理に従い政治的中立を心がけ、意図的に控えめな存在であろうとしましたが、その一方で時代のうねりが彼を含む日本人を引き上げ押し出し、前へ後ろへと動かすのでした。

『黒船』に翻弄される日本を読み解くポイント

ここで中公文庫における川西正明氏の解説から、この作品を読み解く5つのポイントをご紹介します。

①通詞(通訳)の立場からみた「外国」の具体的描写

侵略、植民地化されずに国体を護持するには開国するしかないという国家の進路の決定が、外国事情に通じた通詞の眼を通じて再現されています。

②投獄により、吉田松陰や水戸浪士らの尊皇攘夷思想と出会う

安政の大獄は、時の大老井伊直弼によって、14代将軍を決める将軍継嗣問題に際し反目した一橋派の公家・大名・藩士らが、厳しく処罰された一連の出来事です。
急進的な尊皇攘夷論を説き、若い藩士たちに影響を与えていた吉田松陰や橋本佐内らが死刑に処されました。
政治そのものとの直接折衝を禁じられた通詞の達之助。過酷な獄中生活がなければ、彼が尊皇攘夷という日本の国体論に接することはなかったかもしれません。
開国に携わった達之助にとって、尊王はともかく攘夷は受け入れがたい発想でしたが、その違和感をもって攘夷思想の世界性に彼は触れていきました。

③英語主流の時代の趨勢の中、取り残されていくオランダ通詞

江戸時代のオランダ通詞は、地位は一家相伝、技術の習得は口伝のものとされていたほど特別な職業であったと言います。
その能力たるや当代一流であった達之助ですが、日本における外国語交渉が英語主流となっていく中、取り残されていくのは必須…。
しかしそれにも関わらず、彼が日本最初の「英和対訳袖珍辞書」を完成させた功績は大きなものがあります。

④アイヌの人骨を盗掘をめぐる外交交渉

函館で勤務する達之助が経験したのは、アイヌの人骨をめぐる日英交渉における箱館奉行小出大和守の毅然たる外交交渉の一部始終です。この小出奉行の態度は、開国交渉に従事した達之助の世界認識を超えていました。

⑤不遇で孤独だった達之助が平安の日々を得られたのは

数奇な生涯を送ってきた達之助、それは不遇で孤独なものでしたが、函館勤務の間に美也という美しい妻を得ます。
初めてと言っていいほど、幸せを実感する暮らしを手にした達之助ですが、その妻の急死により、己の生涯を顧みて、これでよしとその生を定めることに。
職業人として生きた達之助が、人間としての自分の一生にどのような評価を与えるか。これは読者の共感を呼ぶところかもしれません。

決定権なき職業人の憂い?

常に重要事項の前線に立ち会いながらも、その職能から決定権はなく、解決できたかもしれない能力や可能性に敢えて背を向けて、傍観者であることが求められた達之助。

この江戸時代も、もしかして以降の時代、現代ですらも、そうした立場にある人が多いかもしれない日本。
単純に言い切ることはできないにせよ、働く者のそうした不甲斐なさや悲哀にシンパシーを感じることができる、お仕事小説としても堪能できる一冊です。


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