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君と見たい景色、君に見せたい景色

君と見たい景色

 君と見たい景色がある。
 君に見せたい景色がある。

 駅のホームに緑色の電車が停車した。すぐに車両に乗り込み、端の空いていた座席に僕らは座った。それから僕は鞄から本を取り出し、母さんは手に持っていた電話の画面に視線を落とした。この電車に乗るのも、もう何度目だろうか?物心つく前からだから正確な回数は知らないけど、きっといっぱい、うんと沢山なはず。
 僕は本を開く前に、少し車内を見渡した。立っている人は誰もいない。子供は僕だけで、みんな電話を見ている。そんなだから、今ここに何人いるとか、黒い服の人がいるとか、僕が今からどんな本を読むかも誰も知らない。そんなに手の中にあるものっておもしろいのかな。黒い服の人が何人いるか探すゲームより楽しいのかな。僕も母さんの電話を触らせてもらった事があるけど、動画を見るのは確かに面白かった。みんなアニメを見ているのかな、それだとずっと見ているのわかる。それか、みんな何を見ているのかな。こうして今僕が見ている世界より、その電話の中の方がおもしろいのかな。今よりおもしろいって何をみんなは見ているのだろう。
 そんな事を考えていると、本をまだ読んでいない事に気づき、僕は本のページを開いた。これを読むのは初めてじゃない。僕はこの物語の最後がどうなるかを知っているし、出てくる言葉も結構覚えている。持っていける本は鞄に入る3冊までと毎回決められているのに、いつもこの電車に乗る時はその1つとして選んでいた。それには理由があるからだ。

 まずい、電車を降りた後の儀式を思い出してしまいそうだ、このままだと具合が非常に悪い。全神経を文字と絵に集中させる。
 好きなページに切り替え、脳内を本の物語で埋める様に努めた。徐々に意識が現実世界から離れていくのがわかる。これこれ、これだ。さあ、まだ到着するまで時間はある。たっぷりと冒険しようじゃないか、僕なら出来る。
 ほんのわずかでも良い。この先に待つ試練を忘れられるなら何でもする。


 今回の試練も無事に泣かずに乗り越えた。お馴染みの注射の痛みに耐えきったのだ。もっと小さい子だったら泣いてもいいけど、僕はもうそんなに幼くはない。泣いて当然だと見られるなら泣きたいけどね。けど泣かない。恥ずかしいし、かっこ良くない。いつも通り、僕だけ先に診察をした部屋から出た。母さんはお医者さんと話があるみたい。どんな話をしているのだろうか、今日も帰り道に歩きながら聞いてみよう。まあ、きっとまた「順調で問題ないって、検査もそろそろ終わるかもねー」と言うのだろう。答えがわかっていても僕はいつも聞いている。もうそろそろ終わると言いながらまたこうやって来ているのに、僕は「そろそろっていつ?」とは聞かない。そりゃあ、来る度に注射をされるから終わりにして欲しいのが本音だけども、これ以上検査が増えるのが嫌なのだ。なくなるにこした事はない。ずっと前から沢山注射や検査を受けてきた。いっぱい頑張ってきたのだから、これ以上痛い事を僕にしないで欲しい。良い事をあまり望まない代わりに、これ以上の悪い事がないようにして欲しかった。

 ふと、トイレに行きたくなった。
 この階のどこにトイレがあるかは知っている。きっとまだしばらくは母さんは出てこないはず。さっと済まして戻れば大丈夫に違いない。
 本を鞄に入れ、トイレに向かった。そこはそんなに遠くない場所にある。
 看護師さんとすれ違う。パジャマを着た男の子が看護師さんに話しかけていた。見た事ない子。この階は僕みたいに家から来る子もいれば、ずっとここにいる子もいる。僕もここに今より小さい頃に泊まった事があるけれど、あまり覚えてはいない。
 男子トイレには誰もいなかった。手短に任務を完了させ、手を洗う。廊下に戻ると、さっきいたパジャマの子は消え、別のパジャマを着た女の子が廊下の壁を見ていた。何を見ているのだろう?不思議になって僕も彼女の視線のその先を目で追った。あれ?他の壁と同じだ。変わったものはない。アンパンマンの絵とカレーパンマンの絵が貼ってあるだけの壁。おそらく看護師さんが折り紙を切って作ってくれたのだろう。ずっとここにあるから通い慣れた僕からしたら普通だけど、もしかしたらこの女の子はまだここに来たばかりなのかもしれない。
 女の子が僕の存在に気づいて振り返った。あ、髪の長いかわいい子だった。彼女はにこっと笑った。
「アンパンマン、好き?」
 年齢的にはもう卒業してそうだけど聞いてみた。
「別に、ちょっと見てただけー」
「そっか、最近ここに来たの?」
「そうだよ。あれ、どうしてわかるの?」
「この絵、ずっと前からあってさ、小さい子は見る事あっても、大きくなるとみんなじっとは見ないから」 
「ずっとあるんだ。そっか、そういう君はここにいて長いの?」
「入院はもうしてないけど、よく来てるよ。赤ちゃんの頃からずっとここに来てるから色々知ってるんだ。そういう君は?」
「最近だよ。別の病院から来たんだ。君はじゃあ入院はしてないんだね。そっか、そっか。あ、私はアスカ。君のなまえは?」
「僕はハル。最近なんだね」
「うん。ハルはもう診てもらったの?」
「終わったよ、さっきね」
「注射、した?」
「したした。まあ、慣れてるけどね」
「泣かなかった?」
「泣く訳ないじゃん。痛かったけどね」
 本当は泣けるなら泣きたいけどね、と言いかける。
「ハルはすごいなぁ」
「あ、アスカは泣いてもいいと思うよ」
「どうして?泣かないって決めてても、後で部屋で泣いちゃうんだ、だめだよね、もう大きいのにさ」
「泣いていいよ。痛いって。注射してすぐは泣かないの?」
「もう泣かない。お母さん心配するし」
「わかる!そうだよね。心配するよね」
「うん、私が泣くと、つらい顔になるの。それ見るのは嫌。だから私頑張るんだ。私が出来る事ってそれ位だし」
 アスカのその気持ち、痛いほどわかる。
「頑張ってるよ、いっぱい、いーーぱい、アスカは頑張っているよ」
「そうかな」
「うん、頑張ってる」
「せんせいたちは、いつも頑張ろうって言うよ。今日もきっと言うはず」
「僕も注射ずっとしてるからわかるよ、アスカがどれだけ頑張っているか」
「あ、そうか。ハルも私と同じなんだもんね。ハルもじゃあ、いーーぱい、いっぱい、いっぱい頑張ってるね」
 「僕も頑張っている」アスカのその言葉が新鮮だった。母さんや、せんせいや、看護師さんに「頑張ったね」と言われる事はあっても、そういえば「頑張っている」と言われていない気がする。まあ、もしかしたら僕が覚えてないだけかもね。僕がアスカに言ったその言葉、何にせよ、僕も言われて嬉しかった。うん、僕は、僕らは頑張っている。
「そうなるね。僕らは頑張っている!」
「頑張っている!」
 二人で思わず声を上げた。
 声の大きさに驚いて看護師さんが部屋から顔を出してこっちを覗いた。
「あら、アスカちゃん、ここにいたのね。ほら、もうすぐ検診始まるよ」
「えーもうそんな時間ー」
 アスカは頬を膨らませ、そしてオーバーにうなだれた。と思っていたらすぐに顔を上げて笑顔を僕に見せた。にっこりと、元気そうな顔。本当にこの子にも注射が必要なのだろうか?と思う。
「という事で、またね、ハル。私はしばらくここにいるから、また会おうね。ていうか、会いに来てね」
「うん、そうしよう。来た時も寄るね」
「必ずね、待ってるから」
「もちろん」 

 まさか、病院に来る楽しみが出来るなんて、とにかく僕は嬉しかった。


 こっそりと学校の音楽室横にあるトイレで腹痛を素早く解決した。ここは授業終わりには誰も入って来ない穴場スポットだけど油断は禁物。ビクビクしながら今日も終わらせた。手を洗い、さっと廊下に出る。良かった、見つからなかった。ここでやっとほっとする。とぼとぼと下足に向かう。ある程度みんなもう帰っているからか、人はまばらだ。さっと一人靴にはきかえ、門を後にする。 
 そもそも、どうしてこうやってこっそりとうんちをしないといけないんだろう。うんちをしている所が見つかると、「うんちしてるー」と言われてしまう。それが嫌でなるべく学校ではしないように我慢するけど、便意は我慢によく勝ってしまう。どうにかしてうんちを安心して出来る場所はないのか?と探して見つけたのがあのトイレ。あそこを知ってからかなり僕は安心して学校に通える様になったから、あのトイレには凄く感謝している。あの場所は誰にも教えていない、僕だけが知っている秘密で、スペシャルな場所だ。毎朝学校に行く前にしたらいいのはわかっているけど、朝には何故かあまり出ないんだよね。お腹は僕の気持ちを全然わかってくれない。

 お腹をさすりながら歩いた。
 上着の下には青の腹巻きがある。これもクラスメイトの誰にも伝えていない秘密。僕は病気の影響なのか、よくお腹が痛くなる。冷やさない方がいいらしく、その結果夏以外年中腹巻きをしていた。これも知られたくない事だから学校生活では気をつけている。体操服に着替える時にだけ注意したら大丈夫なので、トイレよりはまだマシだけどね。
 そしてそのお腹には大きな手術跡がある。母さんから聞いた話では、生まれてすぐに僕は今通っている病院で大きな手術をしたみたい。沢山父さんから輸血をしてもらったり、色々大変だったらしい。大変な病気だけど、せんせいたちのおかげで死ななかったと言われた。0才から通院はしているものの、こうやって学校にも通えているから、クラスメイトは僕が大きな手術をしているなんてわかっていないはず。一度、この手術跡について母さんに聞いた事がある。生まれた3日目からあるし気にはしていないものの、「どうして僕にはこの跡があって、みんなにはないの?」と。そしたら、病気や手術をした話をしてくれた最後に、「まあ、普通に暮らせているからいいじゃん」と言われた。確かにそうか、腹巻きしたり、時々お腹痛くなったりはするものの、普通に暮らせているからいいか、と納得してからはもうそれ以来聞かなくなった。うん、いい。これが僕の普通。気にした所で跡が消える訳ではないし。じゃあ気にするより気にしない方がいいと思った。だから僕はこの跡の事を普段は全く考えない。それよりもお腹でいえば少しお肉がついて太ってきたかな?という部分を気にするくらい。体を洗う時に、あー跡あるなーと思う程度。その時も跡よりお腹についた脂肪に目がいく。食べるの控えようかな。お菓子もジュースも大好きだから難しい。

 学校は好きじゃない。先生には怒られてばかり。僕が悪いのはわかっている。授業中、じっと先生の話を聞かないといけないのに、つい机の上に広げた自由帳に絵を描いたり、教科書に落書きをしたり、ほかの事を考えてしまうからだ。僕と同じ理由で怒られる子も勿論いる。怒られる度に僕らは「もうしない」と一応反省はする。それでもその子たちも僕もまたしてしまうから、どんどん先生の声はガラガラになり、「もう大きな声を出すのしんどいから怒られないようにしてね」とお願いをされた。「わかった、もうしない」とその時心配して約束したけど、次の日にまた同じ理由で雷が落ちた。
 どうしてそんなに怒るの?と不思議だった。喉が痛いなら怒らなかったらいいのにと、目の前で怒鳴られている時にも思った。思うだけで口にはしなかったけどね。先生の普通がわからなかった。僕の普通ではそんなに怒る事でもないのに、先生にとってはダメらしい。ちょっとはこっちにも合わせてくれてもいいのにな。どうして僕らばっかり合わせないといけないんだろう。先生も合わせてみたらいいのに。きっとこっちの気持ちがわかるはず。怒られる度に僕は「普通って何だろう?」と考えた。まあ、考えても楽しくないのですぐに違う事を考えてしまう位だから、深刻な悩みではなかったかも。僕はそうでも、先生にとっては大きな悩みなのだろうとは感じていた。その悩み、解決されたらいいな。そしたらあんなに怒られる事もなくなるはず、なんて思ってしまうのがよくないのかな。

 虫が多くいる坂道にさしかかると同時に、頭の中が一気に「カマキリいるかな」という興味で染まった。ここで最近三匹見つけている。さあ、今日はいるかな、どうだろう。探してみよう。


 月一回の通院が楽しみになった。

 僕は検診が終わるとアスカが待っている所に直行する。そしたら、今日はアスカは先に席に着いていた。
「お待たせ、待った?」
「ううん、今来たとこ。診察終わり?」
「うん、終わり。いつも通り」
「注射、痛かった?」
「そりゃあ、ね。痛いよね」
 アスカの前では本音が出せる。
「頑張ったね、えらい!」
「ありがとう。アスカは今日もう注射した?」
「終わった!泣かなかったよ」
「すごーい、えらい!ほんと、頑張ったね」
「えへ、ありがとう」
「そうだ、本持って来たよ」
「マジ、嬉しい!見たい!」
 お気に入りの本を机の上に置く。アスカにこの本の物語を話したら、私も読みたいと言われていた。自分の好きなものに興味を持たれるのは嬉しい。アスカも僕と同じく本が大好きらしい。 
 ページを丁寧にめくると、色鮮やかなえんとつ町が現れた。アスカが思わず「わぉ」と声をもらした。興奮しているのがこっちに伝わってくる。この本の作者の作品を見るのは初めてみたいだから無理もない。僕も初めて見た時はとくに驚いた。多分、アスカと同じような反応だったかも。
「キレイ、絵が光ってる」
「キレイだよね。光ってるのもやばいよね」
「読んでいってもいい?」
「もちろん、あ、かしてあげるよ」
「え、いいの?」
「うん、ゆっくり読んでほしいしね」
「やったー!さいこー!嬉しいー!ハル、ありがとう!キレイに読むね!」
 予想以上に喜んでこっちも嬉しくなる。
「ここの友達にも見せていい?」
「もっちろん!」
「嬉しい!きっと喜ぶよ!」
「よかった。その子は、何が好きなのかな?今度、好きなのあったらそれも持って来るよ」
「うーんとね、確か、あの子は海が好きなんだ」
「海?か、いいね、海」
「海、行った事ある?」
「あるよ、入った事も。アスカはある?」
「ないない。行ってみたいなー。写真とか映像では見ているけど、リアルなのはないんだ。元気になったら行きたいの。その子ともよく話しているんだ。元気になったら一緒に行こうねって」
「うん、行こう!僕も一緒に行きたい」
「それいいね!絶対いい!言っておく!約束だからね、ハル」
「うん、約束しよう」 
「あーいろんな所に行きたいな。あ、そうだハル、そういえばさ、おばけ電車って知ってる?」
「え?知らない、知らない。怖い話はやめて。苦手なんだ」
「怖くなんかないよ。看護師さんから聞いたんだ。ここに入院している子で、乗った事ある人がいるみたいなの」
「本当?乗ったの?どうなったの?」
「乗って、色んな所に行ったんだって。私もそれ乗りたいんだよね。そしたら、森にだって、海にだって、ぴょーんって行けるんだよ」
「すごいね。けど、危なくないの?」
「どうなんだろ?問題ないんじゃない?私は乗るよ。だってもう全然おでかけしてないんだよ。お気に入りのワンピースも着たいし」
 そうだ、そうだよね、色んな所に行きたいよね。

「海ってどんな感じだった?冷たい?」
「夏に行ったから、あったかかったよ」
「そうなんだー。何か魚は見た?」
「見たよ」
「ニモ?」
「あー、ニモはいなかったかも。小さくて青い魚は見た。名前は知らないけど、かわいかったから、見に行こう!元気になって!」
「そう!よし、元気になる目標出来た!来年の夏までには私、絶対に元気になる!決めた!」
「おう!元気になろう!僕もなる!」

 僕らは絶対に元気になる。そして一緒に海に行く、これも絶対。いっぱい頑張ってきたから、きっと来年は海に行ける。

「ここにさ、海の写真とか飾ってくれたらいいのになー、ねえ、そう思わない?」
 アスカが廊下の壁を指差して言った。その手の先には何も飾られていない。それ、いいね。何もない今よりずっといい。海に行けない身として、そうだったらいいのにと本気で思った。
「見たい!どうして何も飾ってないのかな」
「謎だよね。見たいよね、ここで海を。行けるならもう行ってる。行けないからこそ、ここに写真とかあって欲しいし、見たいよね」

 ほんと、どうしてここの壁には何もないのだろうか。誰も不思議に思わないのだろうか。

 写真とか絵とかもっとあった方が嬉しいのに。何故何もないか、みんなは理由を知っているのかな。僕らはそうじゃない方がいいと思っている事、大人たちはわかっていない。大人には思っていても言わないから、もしかして伝わっていないのかな。言わなくてもわからないのかな。何もないって寂しいよ。わからないの、なんでだろう。


 僕は今日も順番が来るまで本を読む事にした。3冊のうちの、まずピンクのぽっちゃりクマさんが主役の本を選び、ページを開いた。
 青々とした木々が目に入る。壮大な大自然がここにある。僕はこの絵が大好きだ。出てくるキャラクターはみんなかわいいし、そしてそれぞれ魅力がある。クマはおっとりしているだけに見えて、実はとんでもなくかっこいいし、友達を助けるシーンはいつ見てもワクワクする。

 物語がいよいよクマの活躍するページまであと一歩という時に、名前が呼ばれてしまった。僕の番だ。お母さんに「さあ、行くよ」と声をかけられた。渋々本を鞄に戻し、立ち上がった。

 扉を開けると、お医者さんと看護師さんがいた。お医者さんはおばちゃんせんせいで、僕が赤ちゃんの頃からずっと診てくれている人だ。今日の看護師さんも名前はわからないけど見覚えはある。どっちの人も凄くやさしくて好きな人だ。

 椅子に座り、Tシャツを上にあげてお腹にある手術の跡を見せた。この跡は大きいし、縫い目まではっきりとわかる。そこにそっとせんせいの指が触れた。冷たくてヒヤッとしたのは内緒。
「お腹は最近痛くない?」や、「変わった事はないかな?」という質問に答える度に、せんせいはパソコンに何か文字を入れていく。

 もう何回ここに来たのかな?

 きっと、数えきれない程来ているはず。
 だからこの後何があるかも知っているし、それを考えると嫌になる。しなくていいならしたくないけど、そうはいかないんだよね。そわそわしたこの気持ちを悟られないよう、くしゃっとした笑顔を作り、壁にある見飽きたアニメの絵に意識を飛ばした。キャラクターと目が合う。君はいいな。とにかく羨ましいぞ。

「好きな食べ物って何だっけ?」と言いながらせんせいが注射器を手にすると、僕は手を差し出した。僕は隠れて息を止める。  
「ホットケーキだよ」と話している間に嫌な時間が終わり、心底ほっとした。 すぐに伝わらない位小さく一息ついた。朝からずっと憂鬱であった試練を達成出来た。本当は「やったー」と叫びたい。
「頑張ったね」
「すごいね」
 せんせいと看護師さんにたっぷり褒められた。みんなに言われて本当は凄く嬉しいのに、僕は「そう?別にこれって普通だよ」という感じで「うん」とだけ答えた。この心の動きはバレていないはず。大丈夫、大丈夫。僕はそう、これ位大丈夫な人間なのだ。だから、みんなを心配させる訳にはいかないのだ。特に母さんにはそう思われたくない。僕は強い男、注射なんてもう慣れているし平気だと思われなければならない。

「代われるなら代わってあげたい」と泣いていた母さんを僕は知っている。夜にそう父さんと部屋で話しているのを、トイレに行く時に廊下で聞いてしまった。僕の前ではそんな素振りは見せず強くてあっけらかんとしているけど、実はそんな事を思っていたなんて、とにかくショックを受けた。だからその時に僕は「強い男になる」と決めた。もう検査で注射をされても泣かないし、一切ひるまない。僕のせいで母さんを悲しませたくはない。僕は大丈夫。代わらなくていい。そんな事、もう絶対に思わせない。ねえ、僕は頑張るよ。僕は頑張れる。僕は強い。


 検診が終わると僕らはエレベーターで別の階に移動した。そこに入ると、もう友達のアキ君がお母さんと待っていてくれた。
「久しぶり!」
「久しぶりだねー」
 嬉しくて大きな声をあげた。
 アスカを通じて最近仲良くなった彼も、同じくここで寝泊まりしていた。 
 「アスカは?」と聞くと、今日は少し体調が悪いみたいで、部屋からは出られないらしい。心配だ。そして心配しか出来ない自分が悲しい。

 僕らは三人でよく「退院したらどこに遊びに行こう?」と相談しあった。僕が行きたいのはクマがいる大きな森で、アキ君は青い海。アスカはクマにも会いたいし、海にも行きたいと言った。アキ君は世界中の海について詳しくて、よく写真を見せながらどんな魚がかっこいいか教えてくれた。ウミガメはとにかくかわいいらしい。
 みんなで過ごす時間が大好き。僕は苦手なことだらけだけど、ここにいる時はそれがどうでもよく思えた。例えば、僕は忘れっぽくて渡そうと思ってた本を忘れたりするけど、「いいよ、また今度持ってきてくれたら嬉しい」と、ちっとも怒られない。ここでは学校と違って僕は否定されないし、僕も否定しない。散々否定されてきて嫌だから、僕も否定なんてしたくない。とくに大好きな友達はなるべく肯定したい。僕も肯定されたいから、まず先に肯定したい。だって、めちゃめちゃそれって嬉しいから。学校もこういうかんじだったらいいのにな。そうなったらみんなが行くのもっと楽しくなるはず。だけど僕が願ってもちっともそうはならない。まあ、いい。僕にはここがある。僕にとって、きっとみんなにとってもここは大切な場所で、大切な時間。だからずっと続いてほしいと願っている。全員元気になって家に帰るのが一番だから、病気が治ることも願った。一緒に海や森に行くのも願った。なんだか願ってばかりかもしれないけど、いっぱい頑張っているから願ってもいいはず、だよね。

 突然、アキ君に近々大きな手術が控えていると打ち明けられた。
「すごく不安」という言葉をアキ君がこぼした。
 僕たちは「絶対大丈夫!」と励まして、来年にみんなで海に行く約束をした。
 そう、絶対に大丈夫。
「もし無理なら僕の分も見てきてね」
 それでもアキ君は不安を隠さなかった。
「僕もよくなったからアキ君も大丈夫。よくなって海でウミガメに会おう」と言ったものの、アキ君の心に響いたかはわからない。

 元気よくバイバイした。
 帰り道を歩く僕の心の中は不安でいっぱいだったけど、アキ君の方がきっと不安だろう。アキ君、大丈夫かな、無事、乗り越えられるよね、きっとまた会えるよね。絶対に大丈夫だよね。


 僕は茶色の天井を見上げていた。布団に入ってからどれだけ時間が過ぎたのだろうか。時間を推測しようと窓を見た。その窓から光はまだ届いている。これにより、夕方ではないのは確か。まだ夜にもなっていない。
 目はつぶるが、意識は消えてくれはしない。寝たいのに寝れない。腹痛と全身から力が抜ける苦しみが、寝る事を許してくれない。
 僕はこうやって体調が悪くなる日がある。なる頻度は減ったものの、今だにある。普段はすっかり忘れていられるのに、しんどくなると自分の病気を嫌でも思いさせられるし、向き合わせられる。本音は、思いたくないし、向き合いたくもない。けど、やっぱりしんどいとそうなるざるをえない。

 この感覚は久しぶりだ。
 こうなってしまうと、もう解決策は寝るしかない。この症状にピッタリな薬はまだないみたいで、こうなる度に僕は朝だろうが昼だろうが、家でひたすら寝た。そして母さんたちが時々僕のお腹をさすってくれる。ちょっと元気が戻ると本を読む。そうなるまではじっとするしかない。さあ、今日はいつくらいに元気になれるのだろうか。

 僕はいつものように大好きな本の物語を思い出した。意識の中にその世界を描く。色を塗り、生き物に命を宿す。自分も忘れずに入れた。僕は力いっぱいにその街中を駆け巡る。この中では僕は自由だ。誰にも止められない。お腹も痛くないし、いくら走っても疲れない。嫌な事もない。楽しい事だらけ。ここは自分が作った架空の世界だけども、僕にとってはかけがえのない場所だ。いつか目を開けた世界でも自由に遊べるはず。その日を僕は楽しみにしている。いつかは、明日でもいい。明後日でもいい。もったいぶる必要はない。その日が来たらこの世界に入れなくなっても構わない。自分が作った世界が必要じゃなくなる日を夢見る。いつか、いつか、いつか。母さんたちに心配されない日になって欲しい。注射もしたくない。もうこりごりだ。沢山寝る、食べ物に気をつける、検査を受ける、あと僕は何を頑張ればいいのだろう。元気になれるのなら、母さんたちが心配しなくてよくなるならと思ってずっと頑張ってきた。いつか、僕は元気に本当になれるのかな。いつかって、いつなのだろう。ああダメだ、ダメだ。弱気に支配されそうになる。そうはさせない。母さんたちに弱気が知れると、また心配をかけてしまう。それだけはダメだ。僕は強い、強いんだ。心配かけない事が僕にできる事。早く大人になりたい。子供の僕にはできる事が少なすぎる。大人になりたい。僕は、大人になれるのだろうか?なれるといいな。どうやったらなれるのだろう。元気がずっと続く事ってどんな感じなのかな。元気になったら行きたい所がいっぱいある。早く明日になれ。明日はきっといい日になる。


 家のチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、アキ君が立っていた。
「あれ?もう退院したの?」
「うん、そうだよ」
「手術はどうしたの?」
「大丈夫。それより、海に行こうよ?」
 アキ君はそう言って僕の腕を掴んだ。
「え、今から?」
「そうそう!」
 そのまま僕は家から出た。
「ちょっと待って、お母さんに言わないと」
「いいから、いいから」
 アキ君は僕の手を握りながら駆け出した。あまりに楽しそうだから、途中で僕も「まあ言わなくてもいいか」と思い直した。

 しばらく走ると僕らは広い公園に入った。家の近くにこういう所ってあったかな?見覚えのない道がしばらく続いた後、突如線路が現れた。
 そして、すぐに電車が目の前まで来て停車した。僕が驚いている間に、アキ君は迷わず中に入ってしまった。戸惑いつつも、どこに行くかわからないまま僕はアキ君の後を追った。

 車内は外国の映画に出てきそうな雰囲気で、とても豪華で驚いた。初めて乗る種類だ。こんな電車ってあったっけ。どこの電車なのか気になった。それにしても中はかっこいい。病院に行く時もこういう電車だったらいいのにな、なんて考えながらアキ君の姿を探していると、先にアキ君の大な声が耳に届いた。おかげでアキ君がどこにいるかすぐにわかった。アキ君は一人で窓の外を見て「すごーい」と声をあげていた。何があるのだろう?
 僕も隣に座り、同じく窓を見て、同じく思わず叫んだ。
「すごーい!」

 青い海がすぐそばに広がっていた。水面はキラキラと太陽の光があたり、色鮮やかに輝いている。
 これは凄い。見ているとワクワクしてきて、叫ぶ気持ちがわかった。海が好きな気持ちがアキ君よりも劣る僕でもこんなにワクワクしているのだ、きっと僕の何倍もワクワクドキドキしているに違いない。

「そろそろ降りようか」 
 アキ君が急に席を離れた。
「いいけど、ここって駅じゃないと思うよ?」
 そんな僕の声を無視して僕の視界から消えた。ドアに目を向けると何故か開いていた。アキ君は外に出たけど、まわりの人は誰も出ようとしていない。置いてけぼりが怖くて僕は急いだ。

 アキ君はすでに膝下まで海に浸かっていた。
「こっちにおいでよ、気持ちいいよ」
 海に入ると冷たくて気持ちがよかった。強い日差しによって熱くなっていた体が癒される。その足のすぐ近くでは青い魚が泳いでいる。
「海、きれいだね。お魚もいるし」
「そうだねー。見たい生き物はいる?」
「えーと、僕はウミガメに会いたいな」
「ウミガメだね、すぐそこにいるよ」
 アキ君が指差した先に目をやると、小さなウミガメがひょっこりと愛らしい顔を海面から出していた。
「すごい!かわいい!」
 まさかウミガメにも会えるとは思わなかったから更に興奮した。優雅に泳ぐ姿もとにかくかわいい。
「向こうには何がいるかな」
 僕らは浅瀬を水しぶきを飛ばしながら全力で駆け抜けた。黄色い魚、赤い魚、ほかにも様々な種類の魚がいて、そのどれもがかわいかった。アキ君に図鑑で教えてもらっていた魚も見つけた。
 海で僕らは今遊んでいる。アキ君と約束していた事が実現して嬉しい。アキ君が元気になって良かった。手術、無事に成功したんだ。ほんと、嬉しい。そういえば、こうやって一緒に力いっぱい遊ぶのって初めてかも。楽しいな。森もいいけど、海も楽しい。海が僕も大好きになった。海っていいね。写真とかで見るより、やっぱり実際に来て遊ぶ方がずっと楽しい。それに、アキ君はずっと来たいと願っていたから、喜びも大きい。検査を頑張ってきて良かった。こういう日をどれだけ僕らは願ってきたか。アスカも誘えば良かったな。アスカは今日は何をしているのだろうか?アキ君がいつ退院したかは知らないけど、既にアスカもアキ君みたいに退院しているのかな、そうだったらいいな。そうしたら一緒に海にも森にも行ける。次来る時はアスカも誘おう。絶対に楽しい。

 めいいっぱい遊んだものの、やはり母さんに出掛けているのを伝えていないのはまずいと思い、その事を伝えた。そうすると「そうだね、そろそろ帰ろうか」となった。

 少し歩くと電車が視界に入った。僕らは車内に飛び乗り、空いている席に座った。ほかの席は人で埋まっているけど、またしても静かだ。みんな、友達同士ではないのかな?どうしてお喋りしないんだろう。喋りたくないのかな。嫌な事でもあったのかな。
 こんなに素敵な海があるのに、ワクワクしないのかな。そうやって隣席などを気にしていると、そっと肩をたたかれた。アキ君だ。
「お家に帰る前にさ、ついて来てくれる?」
「いいよ、アキ君のお家に行くの初めてだね。僕のお家の近くかな?」
「帰るのは家じゃないんだ。病院に一緒に来て欲しいんだよね」
「病院?え?まだ入院していたの?」
「うん、そうなの」
「入院しているのに抜け出していいの?沢山走ったけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 アキ君は退院していなかった。
 そうだとしたら走って大丈夫なハズはない。一気に心配になると、電車がゆっくりと動きを止めた。もう到着?窓の外を見て景色を確認しようとしたけど、真っ暗でわからない。トンネル?地下?それとも夜になってしまったのかな。
「さあ、降りようか」
 どうやらここが目的地らしい。
 降りた先は駅ではなく、病院の廊下だった。病院?駅じゃなくて?どうなっているかわからず頭の中が混乱した。しかもここはアキ君の入院している階だ。見覚えのあるアニメのキャラクターが壁に飾られていてすぐにピンときた。

「よくわからないけどすごいね」
「うん。僕も実はあまりよくわかっていないんだ。君に会いたいと願っていたら、いつの間にか電車に乗っていて、会いにいけたんだ。不思議だよね。けど、そのよくわからない不思議のおかげで、今日は楽しかった。一緒に海に行けて嬉しいよ。ありがとう。願いが叶った。もう大丈夫」
「楽しかったね。けど、もう大丈夫って?」
「もうすぐ手術なんだよね。けど、正直に言ってうまくいくかわからないみたい。お母さんやせんせいは僕にはっきりとは言わないけど、わかるんだよね。こういうの、わかるよね」
 そう言ってアキ君は無理やり少し笑った。
「そ、そうだよね。色々わかるよね。わからないふりを僕もしているけど」
 いたい程その気持ちがわかる。笑うけど心は笑ってなんかいない。だから今日海で見せたあの笑顔こそが本当のアキ君だ。アキ君には、心から笑っていてほしい。こんなにずっと頑張っているのだから。もう笑っていい。
「うん、だから、こうやってさ、一緒に最後に海に行けて満足しているんだよ。ありがとう」
「待って、また行こうよ?最後って?」
「その時は僕を心の中で呼んでね。来れたら来るから。僕の事、忘れないでね。そりゃあ、また来たいけどね」
「絶対、一緒に行こう、最後じゃない」
「どうだろう、また行けるかな」
「行けるよ。行こう。どんな生き物に今度は会いに行く?」
「そうだね、マンタとか、かわいい魚とか、またウミガメにも会いたいな」
「会おう、会えるよ」
 僕は「会おう」と言うけど、「頑張ろう」とは言わない。アキ君がこれまでどれだけ頑張ってきているか知っている。彼もたくさん、たくさん、頑張っている。「頑張ろう」以外の言葉をかけたくてほかの言葉を頭の中で必死に探すけど、ぴったりな言葉が出てこない。けど、何か言いたい、このままはダメだ。何も僕がしなければ、もうアキ君と会えない気がする。それは絶対にダメだ。
 絶対に、そんなの嫌だ。

 アキ君の見たい生き物を今すぐに見せたくなった。じゃないと、もう二度とアキ君に会えない気がした。嫌だ、お願いします。
 目をつぶってそう祈った。

「わー!すごーい!」
 アキ君が叫んだ。 
 あわてて目を開けると、壁一面に海の写真が飾られていた。どうやって?僕は驚いた。さっきまで何もなかったはずの壁に写真が沢山ある。魔法?夢?きっとここは少し変わった世界なのだろう。もしかしたら夢かもしれない。だけどそれは今の僕にとってはどちらでもいい、アキ君がまた会おうと約束出来るなら。写真の中には、アキ君にこれまで見せてもらった海の生き物が沢山いた。大きなマンタもいるし、かわいいウミガメもいる。ニモもいた。
「病気退治して、一緒に見に行こうよ」
「うん、行きたい、行きたいよ」
「行こう、約束だよ」
「うん、約束したい、ねえ、僕がんばるよ」
 手と手をとり合い、そう僕らは約束した。これできっと大丈夫。手術は成功する。そして必ず一緒に海に行くのだ。ウミガメに会うし、マンタにも会う。かわいい魚にも会う。

「なんだか僕、安心した」
「良かった。僕も安心したよ」
 ほっとしたら、アスカの事を思い出した。アスカはどうしているのだろう。アキ君が入院したままなら、アスカもまだいるはず。この前は体調が悪かったみたいで会えていないし、会えるならこのままこの世界の中でアスカにも会いたかった。
「アスカには会った?」
「会ってないよ。海に君と行きたいと願っていたら電車に乗ってて、すぐに家に行ったから。この世界ってなんだか不思議だね。どうなっているんだろう。そういえば僕、砂浜を走ったけど、全力で走ったのっていつ以来かな」
 アスカに会いたい。
 この世界のルールはまだよくわからないけど、看護師さんが言ってたように、この中に入れる人と入れない人がいるみたいだ。アキ君は体調が悪い中願っていたらこうして夢が実現したように、アスカも体調が悪いみたいだからこの中で会える条件には当てはまっているはずだ、僕の予測が合っていたらね。そして、その正解か不正解かの答えは、この廊下の先にある。
 アスカに会いたい。
 アスカはきっと不安なはずだ。体調が悪くて入院していても部屋からは出れたのに、それが無理って、もしかしたらアスカは、僕が思っている以上にかなりしんどいのかもしれない。
 そうだ、きっとそうだ。
 今になって知る自分を殴りたい。
 ただでさえ不安な中、僕はアスカを一人ぼっちにさせてしまっていた。僕はなんて男だ。僕はバカだ。大バカ者だ。どうして僕は会えないと聞いてすぐに会いに行かなかったのか。部屋の前までで中に入れなかったとしても、手紙を書いて渡してもらうとか、いくらでも励ます方法はあったのに。バカ、バカ、バカ。けど、まだ遅くはないはず。今、会いに行く。アスカ、君と一緒に色んな景色を僕は見たい。今、会いに行くよ。
「アスカに会いに行こう」
 僕はアスカのいる部屋の方向を見た。
「待って、僕は多分行けないんだ。だからさ、ハル一人で行って。僕はもう大丈夫だから」
「わかった。ほんとに、大丈夫?また会えるよね、僕らって」
「うん、会えるよ。僕はまだまだ頑張る」
 アキ君の目には嘘はなかった。
「よし、それじゃあ行くね」
「うん、だから急いで、ここにいれる時間ももう残り僅かだと思うんだ」
「え?それはまずい」
「絶対アスカに会って、僕みたいに元の世界へ連れ戻してね」
「もちろん」
 そう約束を交わし、スタートを切った。
 今、会いに行くよ。

 走りに走った。病院の廊下を走るなんて普段なら絶対怒られるけど、今はそんなの関係ない。誰も僕を止められない。角を曲がるとアスカの部屋になる。もうすぐだ。
 部屋の前にたどり着くと、ドアの横にかけられた「面会不可」という札が目に入った。
 そんなの関係ない。
 勢いよく僕はドアを開けた。
 誰もいないが、僕は驚かない。なんとなくここにはいないと予感していた。そしてアスカが病院にいない事で、次の予感も確信へと変わった。

 振り返ると電車が僕を待っていた。すぐさま飛び乗る。中には誰もいない。
「速く、お願い、アスカの元に連れていって」
 電車が勢いよく発車した。倒れそうになるのをぐっとこらえ、そのまま椅子へと逃げる。
 窓の景色が流れていく。
 海に向かった時の比じゃない位スピードがどんどん上がっていくのがわかる。速く、速く、とにかく速く。間に合わなかった、なんて無理だ。そんな後悔なんて絶対にしたくない。

 外の景色が予測していた色に染まった。もうすぐだ、と思ったら電車が停止した。
「ありがとう!」
 ここまで頑張ってくれたこの電車にすごく感謝した。ドアから飛び降りると、やはりそこは森の中であった。いつかアスカと行こうと話していた森だ。あ、森は森でも、そういえばクマのいる森だ。野生のクマに会ったらやばい。クマに出会う前にアスカを見つけないといけない。
 木々が生い茂り、右にも左にも前にも進めそうな雰囲気。さあ、どっちに向かおう?どこにいるかは全くわからない。アスカとは「森で遊ぼう」としか話していないからヒントも何もない。けど、こうやって迷っている間にも貴重な時間が過ぎていく。ええい、どっちかは重要じゃないのかも。どっちを選んだとしても正解にしちゃえ。
「アスカに会いたい」と強く願いながら僕は前へ進んだ。とにかく走る。木の枝が邪魔をする。伸びた草も行く手を阻もうとしているが、どれも誰も僕を止められない。僕は止まらない。これは僕の道。散々これまで我慢してきたから、この世界の中位、僕は我慢しない。我慢したり、誰かがしてくれる事を期待して待つのはもういい、もうやめた。我慢してもアスカにはきっと会えないし、誰かに期待してもどうせ現れないのは知っているから、待つよりも僕がその誰かになる。明るい未来を作るのだ。

 ふいに目の前が光った。足を止めると、原っぱが広がっていた。その中に、いた。アスカだ。アスカは岩に座りながら空を見上げていた。
「アスカー!!」
 僕の声にアスカが反応した。僕を見つけると、にっこりと笑った。アスカだ。あのアスカにやっと会えた。
 原っぱまで走った。
「そんなにあわてて、どうしたの?」
 会えた喜びで全身の力が抜け、僕はアスカの目の前でへたりこんだ。アスカが心配そうに覗きこむ。アスカはワンピースを着ていた。あ、これがこの前話してたたお気に入りの服か。その青のかわいいワンピースはアスカにとても似合っている。
「アスカこそ、何してたの?」
「私?森をぶらぶら歩いてたよ。この後は海に行こうかなーって思ってたの。そしたら、慌てたハルが来たってかんじ」
「そ、そうなんだ。会えてよかった」
「うん、そうだ、一緒にこれから海に行こうよ?そしたらさ、私のしたかった事、全部叶うし」
 アスカはまだ気づいていない。
「行くのはいいけど、退院した後にもさ、一緒に行こうね」
「退院?どうだろう、私は家に帰られるのかなー。私、ここ最近ずっと寝ているんだよね。みんなにも会えていないし。会いたいなー、ハルと遊びに行くって約束したの無理かな、行きたいなって考えてたら、気づいたらここを歩いてたの。そうだ、不思議な電車に乗ったんだよ。その電車に乗って良かった。森に来れたし、会いたかったハルにも会えたしね。あとは海に行けたらもう十分だよ」
「ダメだ、ダメ、十分じゃない。アスカは戻って、退院して、みんなで一緒に海に行くんだ」
「もう、私疲れたよ」
 アスカの目から涙がこぼれ落ちた。
 アスカは泣いていた。

 アスカは「疲れた」と言って泣き崩れた。その気持ち、手にとるようにわかる。僕は言葉に詰まる。疲れた、よね。僕も口には出さないけど同じく思っていた。いつまで続くかわからない検査、何度も何度も受ける注射、減る事を知らない薬、もう、うんざりだ。全部もうしたくない。僕はアスカにどんな言葉をかけたらいいのだろう?ここでお別れはしたくない、そんなの嫌だ、けど、ずっと頑張ってきたアスカにかける言葉がみつからない。頑張って、頑張って、頑張っての後の「疲れた」だ。何もしなかった訳ではない。一生懸命、検査に耐えてきた。その努力を知っている。もうこれ以上、出来たら「頑張れ」なんて言いたくない。「もう頑張らななくていいよ」という言葉をかけてあげたい。けど、それだと、もうアスカに会えない。会えない方が嫌だ。どんな言葉が彼女を救えるのだろうか。
「やだ、どうしてハルまで泣いてるのよ」
「え?」
 手を目にやると、指先が濡れた。言葉を探しているうちに、僕も泣いていた。泣こうとなんかしてないのに、勝手に涙が頬をつたう。
「あれ、ほんとだ、泣いている、どうしてだろう。泣きたくないのに」
 止めようとしても無理。どんどん涙が出る。アスカの前で泣くなんてかっこ悪いから嫌なのに、気持ちとは逆に流れていく。
「ハル、泣きすぎ」 
 アスカは泣きながら笑って僕を抱きしめた。つられて僕も笑った。
「ごめん、かっこ悪いよね、何か言おうと思うけど、出てこないんだ。もう十分頑張ってきたよね、わかるよ、わかる。だけど、また会いたいんだ。一緒に海も、森も行きたいんだ」
「ありがとう、嬉しい。私も行きたい」
 二人して向き合い、笑顔が涙に勝った。
「行こう、行こう。まだバイバイなんてしたくない。これから行きたい所、いっぱいあるよ」
「うん、バイバイしたくない、私、もっともっと生きたい。まだ死にたくない。おいしいの食べたい、かわいい服もっと着たい」
「大丈夫、アスカは死なない」
「ほんと?」
「ほんとに、ほんと」
「私、ここ最近ずっと寝てばっかりだったんだよ、大丈夫かな」
「大丈夫、絶対に治る。そしてさ、大きくなったらね、一緒にして欲しい事があるんだ」
「うん、治る、治したい。私、大人になりたい。大きくなったら、か。何?そういえば、私たちって大きくなったら何になるとか、何をしたいとか話していなかったね。なんか、大人になるってリアルじゃなかったからかな」
「全部の病院にさ、色んな絵や自然の写真を沢山飾りたいんだ。それを、一緒にしてくれないかな?したいんだけど、僕は図工がとくに苦手だから、図工得意なアスカに手伝ってほしいんだ」
 さっき病院で見たあの壁の景色を、君と見たい。頑張っているみんなを応援したい。なかなか出かけられないみんなに、いろんな景色を見せてあげたい。少しでも、癒してあげたい。あの写真が僕やアキ君を救ったように、今度は僕らがそれをする人になりたい。僕に夢が生まれた。
「それ、いいね。すごくいい。ステキ!ステキな夢だね。よし、のった!やる!私もしたい!ハルだけだと絶対変になるの目に見えるし。図工ほんと苦手だもんねーハルって」
 アスカから「生きる」という強い意思が伝わってきて安心した。図工苦手でよかった。苦手な事もこうやっていい所もあるのか。

 ほっとしていると、森にある木々壁紙が剥がれる様にゆっくりと落ちていった。
「そろそろ終わりみたいだね。さあ、電車に乗って。私はもう大丈夫だから」
「うん。元気になって、色んな所に行こう。そして、夢を叶えよう」
「うん、絶対」
 アスカは笑った。その顔にはもう涙はない。きっと大丈夫、だから僕も笑うのだ。僕ももう泣かない。

 電車に乗り込むとすぐにドアが閉まった。窓際の席に着き、外の景色を見た。

 きっと大丈夫。
 この夢、絶対にみんなで叶える。




 君に見せたい景色

 君に見せたい景色がある


 不思議な夢を見た。夢というのは大抵不思議なものだとわかっているから、「不思議」と前につけなくてもいいのだが、あえてつけたくなる位今朝見た夢は不思議であった。酒を飲みすぎているのがきっと原因で、普段より不思議になった可能性はいなめないが、とにかく変な夢だった。その夢でも僕は電車で居眠りしていて、起きたら車内がいつの間にかレトロな内装になっていた。見覚えのある病院に行き、何もない壁を見ている所で目覚めた。これだけだととくに平凡だが、その電車や病院がとても初めてには思えなかった。それが何故かわからないから余計気になった。車両を乗り換えてしばらく立っていると酔いがマシになったので過去の記憶を遡ろうとするが、ちっともわからない。夢なんていつも気にしないタイプなのにな、とそんな今の自分に少し戸惑った。まあ、いいか。忘れよう。
 やっと座れて僕は安堵した。久しぶりに乗る電車がよりによって満員なんてついていないと落ち込んでいた気分が晴れた。隣の人はスーツを着たサラリーマン。この人もきっと疲れているに違いない。自分のスマホに視線を落とすと、前に立つ人の革靴も見えた。きっとこの人もサラリーマン。みんなの家はどこだろう?僕みたいにまだしばらく目的地まで時間がかかるなら、立ちながら耐えるのはしんどいだろう。そう思うと席におさまったのが申し訳ない気持ちになる。しかし、僕も疲れている。今日くらいいいよね。

 そっと目蓋を閉じ、耳に入れたイヤホンから流れる音楽に身を委ねた。スマホを見るのは好きなものの、それをする体力さえ僕の体にはもはや残っていない気がした。油断すると深い眠りに入る可能性もある。そうはならない様に僕は適当な事を考えてみた。夢想する事や考える事は昔から得意な自分だからこそのチャレンジ。
 今朝食べたご飯から始まり、電車の思い出を探した。満員電車は学生時代の通学の時がよくそうであった。当時はスマホなんてものはなく、狭い空間では本を読む訳もいかなかった。ひたすら音楽に集中した時間か懐かしい。あれから時は流れ、いつの間にかどこからも誰から見ても僕は大人になってしまった。見た目は大人だと認めるが、心はまだ僕は大人ではない。これは自分だけなのだろう。みんなきちんと心も大人になれているのだろうか。そうだとしたら、どうやったらそうなれるのだろうか。大人になれば悲しい事があってもそんなに辛くなかったり、シンドイ事があってもそんなにシンドクはないはずだけど、まだまだ僕は悲しい事があると悲しいし、シンドイ事があればシンドイ。こういう感情を僕は職場とかでは出さない様にしているだけで、心と表情は一致していない。そういう意味ではまだまだ大人ではない。いつ大人になれるのだろう、なんて大人と見られている人間が考えていたらきっとダメなんだろうな。大人って大変だ。

 僕はどこかみんなと違う所が多い人間。それに気づいた時は大人になってからだけど、落ち込みはしなかった。むしろ数々の違和感の意味が知れてほっとした位だ。

 僕は生まれてすぐにお腹を手術した。加えてその後12年間通院もした。スタート時から望んでないのに、なかなか望んでも出来ない経験をしている。この話をすると「大変だったね」と始めて聞いた人に言われるから、僕の心を知らない人にはこの経験はそう見えるのだろう。しかし、当人からしたら実はそうでもなかったりする。重い病気であり、生後3日での手術は大変だったが、僕は赤ん坊であったのでその日の記憶は勿論ない。検査の注射は嫌だったのを覚えているけど、忘れっぽい性格のおかげでそれもあまりもう覚えていなかった。大きな手術跡がなかったら病気について考える事もなくなっていたかもしれない程、もう気にしていない。もはや今なんて手術跡よりお腹の脂肪を気にしている。僕にとってこの病気が全てではない。人生の一部だ。それも、あまり楽しい記憶が紐づいてないのは明らかだから、もっと違う、楽しい事や好きな事を考えた方がいいと思っている。だからなのか、年々病気についての記憶が薄れていくのを良しとしている。それよりもやっぱり楽しかった記憶で頭の中を埋めたいんだよね。

 子供の頃夢見た、大人になれた。

 そういえば、僕は大人になったらしたい事が沢山あった。今その全部ではないものの、それなりにしたい事は出来ている。その結果、楽しい日もあれば、楽しくない日もある。そしてこのまま僕は年を重ね、いずれ死ぬ。まぁ、それも人生か。人生は人それぞれ。色々な生き方がある。「こういう人生を送りたかったか?」と聞かれても、「そう」とは言えない人生、そんなものだろう。大人になれて、お腹いっぱいご飯が食べれて、ゆっくり寝れる家がある、これ以上望むのは僕にとっては贅沢だ。人生も、幸せも人それぞれ。他人にああだこうだ言われる理由なんてない。これは僕の、僕だけの人生。主導権は僕にある。ああ、今日も疲れた。このまま寝られたらどれだけ楽か。まぶたを開くと目の前に自分の家の扉があったらいいのにな、なんて子供みたいに願う。そういう未来に一体いつになったらなるのだろう。科学のお偉いさん達、もっと本気を出して欲しい。やれば出来るよ。なんでやらないんだろう。それ、本気なのかな?なんてね。

 最寄駅に着くと僕は外に出た。冷たい風が頬にあたる。家までもう少し頑張ろう、と自分を奮い立たせる。ベンチに座ったらダメだ。そこからしばらく立ち上げれなくなるのは目に見えている。そうなっても誰も助けてはくれない。夜遅い事もあり幼い子供の姿はいないが、もしそういう子がいたら親に抱えられるなりされておりだろう時間帯。歩くの、しんどいな。みんなどうしてそんなにスタスタと進めるのだろう?こんな悩みを持つなんておかしいのかな。ああ、やっぱりこうやって悩みを探すのはやめよう。ちっとも楽しくなんかない。さっさと帰って、家でゆっくりするべきだ。それが正解。みんなとっくに正解を知っているのだ。僕も知っている。家に帰る道も、家に入った後も、明日もどんな感じかを知っている。そもそもこれに不満や疑問を抱くのが間違いなのだ。何気ない日常こそ究極の幸せなのだ。海外では明日どうなるかわからない人も沢山いる。家に帰っても、明日も特別楽しい事は起きないだろう。だけど、特別悲しい事も起きないはず。家に帰っても何も起きない。だけどこれがいい、これでいい。僕は漫画や映画の主人公なんかじゃない。だからこれでいいのだ。これが僕の人生。

 ぽつり、ぽつりと前を歩いていた人たちが消えていく。まるで人生の様だ。それぞれがそれぞれの家に帰っていく。さっきまで前を歩いていた人はどんな家に住んでいるのだろう、どんな人生を歩んできたのだろう。確かめる術はない。毛糸みたいに、絡んでは離れていく。さあ、もうすぐ家だ。お風呂に入って、さっさと寝よう。そしたらまた朝がやってくる。あ、そういば明日は休みか。だけど予定はない。何をしようか。子供の頃より使えるお金も多いし、移動範囲も広い。出来る事や行ける場所は盛り沢山、選択肢も無限、それなのにきっと明日もいつも通りに過ごすのだろう。それにより、飛びっきり楽しい日にはならないのも確定。だがそれでいい。休みはたっぷり体を休めるから休みと言うのだ。明日もそう生きる。寝て、明日がある事は当たり前じゃない。これはリアルな日常。いきなり爆発なんてしない、宇宙人も現れない、奇跡なんて起きない。 

 グダグタ考えているともう家だ。
 ほら、何も起きなかった。普通に駅を出て、スタスタ歩くとこうやってゴールにたどり着く。嫌な事に遭遇しないし、嬉しい事も奇跡もない。さあ、もう映画みたいな展開を期待するのはやめよう。期待するだけ損だ。いい加減認めるべきなんだろう、嬉しい出来事なんてやってこないってね。家に入って風呂に入ってさっさと寝る、それが一番。これでいい、これでいいのだ。これが人生だ。これ以上何を求めるのだ、これでいいのだ、なあ、そうだろ。ドアを開け、部屋に入る。これが人生。

 朝が来た。歯を磨いて簡単な朝食をとる。テレビはついているが見ていない。ただ無音が嫌という理由だけでつけている。どうせこの時間帯は興味のある番組はない。これがいつもの休みの朝。ここには楽しさは求めていないが、楽しさも辛さもない時間。食欲があまりない人間として朝食を省けるなら省きたいが、食べないと快適に過ごすのが難しくなるから仕方なしに食べ物を口に入れていく。
 ふいに、テレビから聞こえる声のトーンが変わった。気になって画面に注目した。医療現場が映し出されていた。テロップですぐに医療現場の特集だと理解した。それも、どうやら小児医療がテーマらしい。映像を見て、ほんの一瞬、過去の記憶が浮かび上がった。椅子に座りながら読んだ絵本の絵だ。懐かしい。どうして思い出したのだろう。すっかり忘れていた絵。あの絵本、どこにいったのかな。とっくの昔に捨ててしまったのか、まだ実家にあるのかもわからない。確か僕はその本が凄く好きだった気がする。だから幾度となく病院にも持参したはず。そしてその病院には12歳の誕生日から行っていない。あの日、僕は先生から「検診が終わったからもう来なくていいよ」と告げられた。まさかその日に言われるとは思いもよらず、あまり感情も表に出せなかったと思う。先生、元気かな、優しかった看護師さんたちはまだあの病院で働いているのかな、あの病院、キレイになっているのかなと、ここまで考えて僕は驚いた。僕はその全ての答えがわからなかったのだ。大きな病気であったけれど、手術が成功したからこうやって大人になれた。それなのに、0歳から12年間も通院していたというのに、僕は命を繋いでくれた恩人たちや、病院の今についてちっとも知らなかった。こればっかりは忘れっぽい性格だからでは済ませたくない。どうしてあの日から僕は足が遠のいてしまっているのだろう。あれ程通っていたのに、何故気にならなくなってしまっていたのだろう。これは他人事ではない。ニュース番組で悲しい事件を見て、その時は悲しむのに数日も経てばすっかり忘れてしまうみたいに、僕はこれらを他人事にしていた。その理由はわからない。ただ、そうしてしまっていたのは事実。このままにしていたらまた同じになる。
 それは嫌だ。
 ここは大きなターニングポイントになるのかも。
 あの病院はどうなっているのだろう。みんなどうしているのだろう。
 いてもたってもいられなくなった。
 幸いにして今日は休みだ。加えてとくに予定もない。行こう、お世話になった病院に。行くべきだ。今日このタイミングで行かないで一体いつに行くというのだろう。急げ、止まっていた時計の針を動かすのは、今。動かすのは自分しかいない。自らが動かないとこのままだ。

 準備も早々に家を出た。駅に向かい、電車に乗る。その僕の足取りは軽やか。こんなに軽いのはいつ以来だろうか。昨日と同じ道を進むのに、視界に入る景色が少し違って見えた。慣れない駅で一旦降り、電車を乗り換える。次に乗ったのは緑色の車両。ふいに視界に外観の色が入った。
 その色が僕の記憶をまた蘇らせた。そうだ、僕はこの色の車両でいつも病院に通っていた。もしかしたらこの電車に乗るのはあの日以来かもしれない。がらんとした雰囲気もあの日々と似ている。座席に腰をおろし、車内を見渡し、そしてゆっくりと思い出に浸った。僕はいつもこの電車に乗って通院していた。毎回ここで母親と一緒に座り、あの絵本を読んでいた。決まってある注射が嫌で、なるべく考えないようにする為、そうやって頭の中を病院に着く前から本の物語で埋めていた。その作業を何度も繰り返した。好きでしていたのではなく、しなくていいならしたくなかった。いつまでするかもわからなかったが、いつまで続くかは親や先生に自分からは聞けなかった。死ぬまで続くと言われるのが怖かった。これ以上落ち込みたくなかった。ここから検診が終わるまでずっと心か重かった。さらに嫌な気持ちになりたくなんかなかった。自分にとって嬉しい事は起きなくていいから、しんどい事ももう起きてほしくなかった。思い出すと、子供の頃の自分は随分頑張ったと言えるだろう。辛い時間が長いせいか、はっきりとは覚えていない。脳がもしかすると自己防衛としてそうさせたのかもしれない。ドラマや映画になってもおかしくない日々かもしれない。いや、楽しい事なんてあまりなかったから、ドラマや映画にしても見たい人なんていないだろうな。淡々とただ日々が過ぎていた。ずっと続いて欲しくないが、終わりが見えなかった時間。だからその先はあまりあえで考えないように努めた。自分の人生がもし映画になるとしたら、この人生にどんなタイトルを第三者はつけるだろう。喜劇に見える?悲劇に見える?言えるのは、悲劇になんか見られたくはないという事。子供の頃、手術や通院が大変だったのは事実。だけど、これまでの人生、楽しい事や嬉しい事があったのも事実。病気になりたくてなったのではない。わからないうちに手術を受け、気づいたら通院が日常の一部になっていただけ。これだけが人生に起きた出来事でなく、これが全てではない。僕の人生、しんどい時間だけではない。好きな事もしているし、いっぱい笑っている、喜怒哀楽がある。喜びや楽しみもきちんと経験してきている。それに、病気になって良い点もある。例えば、病気のおかげでそうじゃない人より幸せだと感じるハードルが低い所。小さい頃はシンドイ日が多く、朝起きて体調が悪くないだけでまず僕は喜んでいた。いくら記憶力に自信がない自分でも、体の不調を感じて耐えていたあの時間は覚えている。「大人になれて良かった、元気になれて良かった」こう考える大人は一体どれだけいるだろう。健康は当たり前ではない。

 この電車に乗ると辛い記憶ばかり脳内で再生されるが、楽しい、嬉しい出来事も少しはあった。検査を無事終えると、ホットケーキを食べに行くのがお決まりのコースで、帰りの車内でいつもワクワクしていた。美味しかったホットケーキ。「頑張ったね」と言われても、さも平然と毎回ホットケーキを僕は平らげた。あのお店は今もあるのだろうか、あったとしたらまた行ってみたい。あの味は覚えている。

 意識を視線の先に戻すと、そろそろ目的地に着くのがわかった。

 また違う世界に行ってしまっていた。
 僕はよく今いる所から意識が遠のく癖があった。もうずっとこうだから違和感はないが、きっと初めて見る人は不思議に見えるのだろう。一言で説明すると「上の空」状態。自らの意思でそうしようと意識を導く訳ではないからけっこうやっかいな感じ。そうしたいとかないのに、いつもいつの間にかここではないどこかに意識が飛び、様々な事を考えてしまう。指摘されたのは大人になってからだが、今考えると子供の頃もこうであった可能性が高いと思う。直そうともしたが、物心がついた頃からだし、しんどい時に想像力を駆使して頭の中を楽しい感情で占拠させていた名残だとなんとなく解釈し、まあ仕方ないよねと共存の道を選択した。

 所々、見覚えのある建物が残っていた。おそらく昔に見ていたのだろう。まだこうしてそこに存在してくれていてなんだか嬉しい。僕の歩くスピードが速いからなのか、意外とあっけなく病院にたどり着けた。さあ、時が進んだ結果、この中はどんな変化を遂げているのだろう。期待と、もし何も変わっていなかったらどうしようという不安の中、建物に入った。入口をくぐり抜け、エレベーターに乗った。小児外来の階のボタンを押す。色あせた案内ポスターで、ここは通院する人も入院している子供も同じ階で診察を受ける方針なのを思い出した。中は清潔に保たれているが、古さを感じた。病棟はどうなっているのだろうか。もしかすると失望するのでは?と心が揺れる。きっと僕は驚くはず。さあ、あの壁を確認しよう。

 一歩、病棟に踏み入れた。周囲をすぐに見渡した。壁には何もない。
 悪い予想が当たってしまった。なんて事だ、こんな事ってあるのか。これまで何もしないでいた自分がとにかく情けないし、恥ずかしい。自分はこれまで何故なにもしなかった?とすぐに責めた。しなかったその理由は、する理由より本当に上回っていたのだろうか。
 正確に言うと、何かはある。病気のポスターや、病院案内の紙、それ以外は、ない。更に進み、頭の中に描いていた、魅力的な絵や写真は一つとして存在を許されていなかった。時が、止まっていた。自分が通っていた頃と同じポスターではないはずだが、何も変わっていなかった。誰かにして欲しいと願っていたが、その誰かは結局現れなかったらしい。待合室に通りかかると、やっとほんのわずかに飾られているアニメのキャラクターの絵を発見した。幼児に人気なアニメだ。通院している時にもこの絵を見た覚えがある。うんと小さい頃はこの絵に勇気をもらっていたが、小学生になると他の絵や写真を見たかったのも記憶している。高学年でこのキャラクターのシールを貰った時は、子供の事を全然わかっていないとがっかりした。待合室も懐かしい。ちっともあの頃から進んでいない。下手すると椅子も同じかもしれない。ここに座って、僕は診察の順番を待っていた。注射や検査が嫌で憂鬱だった、不安に押しつぶされそうだった、必死に現実逃避を試みて本を読んでいた。心が安らぐ絵や写真が見たかった。子供だからその願いは言えなかった。だから誰か大人がしてくれるのに期待した。しかし、誰かは存在していなかった。
 椅子に座る小学生位の男の子がいた。母親らしき人と並んでいる。診察を待っているのだろう。その少年と昔の自分が重なった。あの頃の自分と同じ子供が目の前にいる。不安で押しつぶされそうなのが隠そうしていても僕にはわかる。そんな少年をただ見るしか出来ない自分が歯がゆい。大人に期待している子供がこの世界にこうして存在している。しかし、その期待を叶えてくれる大人はこの世界に存在していない。それはこの先も変わらず、存在は絶対に許されないものなのだろうか。 
 二人は看護師に呼ばれて診察室へと消えた。忙しい看護師や医師に絵や写真の展示をお願いするのは難しいのはわかっている。だからここでは当時の僕は大人に言えなかった、声に出せなかった。それでもずっと誰かに期待していた。それなのに、長年の通院を終えてから、きっと誰かがしてくれていると、良い方に勝手に考えていた自分が情けない。どうして僕は知っているのに何もしなかったのだろう、何も出来なかったのだろう。生活に追われ、ちっとも優先しなかったのは自分。じゃあいつなら出来た?とこれまでの人生を振り返っても、入り込む余地があったかは疑問が残る。それなりに大変な運命を抱えたまま頑張ってきた自分を全て否定はしたくない。これまで頑張ってきたのは自分が一番知っている。自分の人生だ、自分を優先させるのは悪くないし、責めるのはかわいそうだ。過去は過去をどれだけ追及しても変わらない。今はどうだろう?未来はどうだろう?変えられるのでは? 
 これまでにない考えが芽生えた。
 時計の針を進めなければならない。
 社会がそう望んでも、時代がそう望んでも、誰かが動かないとそうはならない。そしてその誰かはなかなか現れない。誰かは現れなかった。これからも現れるかなんてわからない。わかる方法は1つだけ。自分があのころ願っていた「誰か」になるのだ。ゆっくりと、ゆっくりと、僕は期待するだけで何もしなかった。その間、何も変わらなかった。このままではしばらく変わらないだろう。それは嫌だ。誰も旗を立てないならば、まっさらな所に旗をまず自分が立てる。何も出来なかった子供時代と違い、今は何か出来る大人だ。大人は努力と工夫次第で夢を叶えられるはず。「願う」から、「やる!」に進化するべき。無機質な景色に、色をつける。ほんの少しでもいい、頑張っている子供たちの癒しになれれば。

 もう目を逸らすのはなし。願った未来になっていないこの現実を一度受け入れ、明るい未来にこれからすると決めた。実現するかわからないし、どうやるかもわからない。だけど、それでも実現させる。やり抜く上ではそのどちらも関係ない。実現するかわからなくても、やり方がわからなくても実現させる、そうもう決めた。
 「願う」や「思う」のと、実際にやったのでは大きな大きな差がある。だから、実際にやる、そして実現させる。
 声をもう無視したくない。今も病院で闘病している人たちの存在を無視したくない。そんな大人に僕はなりたかったのか。
 世の中には色々な大人がいる。
 夢を見る人、夢を語る人、夢を追う人、夢をあきらめない人、夢を応援する人、夢を託す人、夢を叶えた人。
 夢を批判する人、夢をバカにする人、夢の邪魔をする人、夢をあきらめた人、夢をあきらめさせる人、実に多様な大人がいる。
 子供の頃、僕はどんな大人になりたかったのかな、今僕はどんな大人だろう、端からはどんな大人に見えるだろう?待合室にいたあの少年の瞳にはどう映っていたのだろう?
 頑張っても実現しないかもしれないが、それは誰にもわからない。わかっている事は、挑まないとまだしばらく実現しないという事。やってみないとわからない。やる前からなんて誰にもわからない。答えは誰も知らない。
 病棟を一周した。やはり思い描いた絵や写真はなかった。ぽっかりと何も貼られていない白い壁が寂しげにあった。ふいに、昔見た夢の断片が意識に流れた。それは不思議な夢で、僕が電車に乗ってこの病院に来て、ここの壁一面に貼られた海の写真を見るという内容だった。どうして今になって思い出したのだろう。妙にリアルで、夢から覚めてもしばらくは夢かどうかを疑った気もする。そしてそれは、まるで昨日見た夢へと続く様で、あれ、そうだ、酔って電車で居眠りして見た夢で出てきたのは、ここの壁だ。だから見覚えがあったのか。同じ夢を見るなんて珍しい。そういえば酔っていてわからなかったが、あの時も緑の電車に乗っていたのかもしれない。子供の頃見た夢ではこの壁いっぱいに海の写真が飾られていた。

 しかし今この壁には何もない。
 あの日見た夢を夢で終わらせるか、終わらせないかは僕のこの手が握っているのだろう。あの夢はもう見られないが、叶えられるはず。無意識に夢を思い出させようとしていたのか。昔の自分がここに今通っていたら、実現したらきっと喜ぶに違いない。声に出せなかった願いを叶えてあげたい。

 さっそく動いた。こうやって時計の針を進めるのだ。帰る道中にて、つい先ほどまで滞在した病院に問い合わせをした。電話に出た人に、「病院で絵や写真を展示させてもらいたい」と伝えた。「確認します」と保留になっている間も胸が高鳴った。
 どんな絵を飾ろうか、どんな写真を飾ろうか、きっとみんな大喜びだろう、展示を見てはしゃぐ子供たちの姿もはっきりとイメージ出来る。あとはいつからスタートさせるかも決めないといけない、ああやる事だらけだけどワクワクすると興奮していると、あっけなく断られてしまった。脳の理解が追いつかず、僕はその場に立ち尽くした。

 あまりにも滑らかな拒絶に、もう呆然とするしかなかった。まさに、これこそが予想だにしない展開。
「今そういうのは募集しておりませんので」と言われて終わってしまった。そこには取り付く暇もない。
 「え、ちょっと待って」
 思わず心の声がもれる。
 「これで、終わり?」
 やっと忘れていた夢を叶える為に重い腰を上げたのに、いきなり扉が閉ざされた。まさか、だ。こんなにすぐに断られるなんて思わなかった。何故展示したいかとか、どんな作品とか、一切説明も求められずに、挑戦が簡単に終わってしまった。いきなり許可は難しいけど、粘り強くこの想いを伝えると扉が開くと信じていたが、そのチャンスさえなかったので、どうして断られたかがわからない。そういうのがやっていないから僕はしたいのに、それをやらない理由にするのってなしだ、ずるい。僕みたいに、それをやる理由にしてもいいのでは。やっていないなら、やればいいと考えるのは、おかしな事なのか。世の中のあらゆるルールやモノはない所から作られてきた。今回もその自然の摂理と同じで、何も不思議ではないはず。しかし、それが通じなかった。スタートしてさっそく途方に暮れた。もう一度電話をするか悩んでやめにした。きちんと話をしたらきっと賛同していただけるはずと思うが、それで無理であった場合に完全に道が閉ざされる事を考えると、作戦をもっと練ってからの方がいいと判断をした。だけど現時点ではちっとも良い案は思い浮べてもいない。一体どうすればいいのだろう。

 もしかすると、僕より先にホスピタルアートを志した人は沢山いたけど、やらうとしたもののこうやって実現出来なかったのかもしれない。そう、きっとそうだ。僕は頭が良い訳ではない。自分よりもずっと頭がキレる人はいっぱいいるし、この、ホスピタルアートを展示するというアイディアは、ステキな面はあるが画期的ではない。自分より先に思いついた人は沢山いると考えた方が自然だ。僕一人ではない。これより前に多くの人が思いついた。しかし、ホスピタルアートは普及していない。これは、挑戦したが実現しなかった場合と、実現したが継続出来なかったという2つの原因があるはず。継続もきっと大変なのだろう。そしてその前に、この挑戦はそもそも実現化がとてつもなく困難なものかなのもしれない。

 どうやったら病院での展示が可能になるか、その方法がちっともわからない。わからない、そうだ、わからない時はスマホで調べるのがベストだとすっかり忘れていた。有名なアーティストの出身地、ソーセージとウィンナーの違いなど、何でも答えを示してくれる魔法みたいなアイテムを使わない手はない。自力で考える時間なんて勿体ない。先人たちの知恵をかりてすぐに実現した方が、みんなきっと喜んでくれるに違いない。

 検索キーワードを入力した。
 瞬時に関連されるサイトが画面に表示され、僕は安堵した。こうやってわからない事は調べる、そうやって方法を知り、そして実現する、その結果患者さんや働いている方も嬉しい、ほら、最高な道だ。
 いくつかのサイトを閲覧した。

 そしてまた絶望した。

 一般人で実現している人がちっとも見当たらなかった。大学生が付属の病院でクラブ活動の一環で実施したり、一部のアーティストが一つの病院で展示している事はわかったが、参考になるサイトにはたどり着けなかった。
 ホスピタルアートが日本の病院のいくつかで実施されているのは素直に喜んだ。だが今の自分には真似出来そうもない。
 答えはここにはなかった。じゃあ、どこにあるのだろう。書籍の中にもおそらくはないだろう。一般人でも実施可能な方法は、公開されている範囲では存在しないものになっていた。答えがないなら、じゃあ作ればいいと、頭を切り替えるしかない。ないものはない。ない所で探してもない。やはり自ら作るしがないようだ、自らが望む明るい未来を。

 「どうやったら夢は叶うの?」という問いに僕は答えられない。まだ夢を叶えた人間ではないので、どうやったら叶うのかがわからなかった。また僕はネットでこりずに夢の叶え方を何気なく調べてみた。すると、一気にその答えが表示された。さっきと違い、その数は膨大だ。
 幾つかに目を通すと、夢を叶えた人たちのそれぞれのやり方が知れた。
 シンプルに書くと、努力と試行錯誤。確かにそれはそうだろう。そんなのわかっている。この夢が努力をして叶うなら、僕は喜んで努力をする。しかしその努力が何かがわからない状態ではどうしようもない。試行錯誤もそう。答えのない中で試行錯誤をするのは大きなリスクが伴う。長い時間をかけてそれが全く見当違いだった場合、もちろん時間は返ってはこない。時間はみんなにとって有限であり、当然自分にとってもそうである。だからどうせ時間を注ぐならば有効的な方がいいに決まっている。要は正しい努力。しかし今はその正しい努力というのがわからない。学校のテストは出題される範囲がわかるし、教科書もある状態で挑めるが、今回はそうはいかない。なんて困難な夢に挑もうとしているのだろうか。そもそも、これまで努力らしい努力をしてこなかった自分に、この夢を実現させられる能力があるのだろうか、なんてつい考えてしまいそうになるのを即座にやめさせた。出来る、出来ないや、能力ある、ないは関係ない。出来ていないから出来るようにする、能力なくても出来るようにする。ないものだらけなのは知っている。それを挑まない理由にしていたら終わりだ。もう、ないをしない理由じゃなく、する理由にするべきだ。じゃあ、どうすればいい?その問いに対する答えは簡単にはわからない。それもそうで、そもそも簡単にわかるならとっくの昔にホスピタルアートは実現しているはず。先人たちもわからなかった答えに挑もうとしているので、困難なのは当然か。唯一わかっているのは、僕が挑戦しないとしばらくこのままだという事実。

 それでも実現したい。

 この夢は、自分しか見ていないのだろうか。闘病経験のある人ならきっと共感してくれると思うけど、どうだろう。自分みたいに、声に出せなかったり、忘れてしまっているだけに違いない。今も各地の病院では闘病している人は沢山いて、あの頃の僕みたいに頑張っている。その家族も大変だし、そこで働く方たちも毎日ヘトヘトになっているはず。みんな、みんな頑張っている。展示をしても、僕はもう通院していないので直接は関係ないかもしれない。だけど、僕はあの日の自分のような人に届けたい。エールを贈りたい。あの時も僕だけじゃなく、頑張っていた子はいっぱいいる。

 そういえば、みんな元気にしているかな。通院していたあの日、あの場所で同じ時間を過ごした友達とは、僕は通院が終わってから会っていなかった。仲良かった友達は確かみんな元気になれた記憶はある。みんな、どんな大人になったのかな。僕の事、覚えているかな。病院の殺風景な壁の思い出は薄らいでも、あのみんなと過ごした時間は覚えている。病気を克服してからはそれぞれの人生をそれまで我慢していた分精一杯生きて幸せになっていると信じ、僕はこちらからは連絡をとろうとはしてこなかった。これまでの僕ならここで終わっていただろう。今は違う。想いを行動に移す。彼らの消息を、ネットを使って調べてみる事にした。その結果、たとえ見つけられなかったとしても、それはそれでいい。彼らが幸せならば。

 「誰から調べようか?」真っ先に候補に挙がったのはアキだ。これは本名ではない。本名はそうじゃないけど、そういうあだ名で僕らは彼を呼んでいた。海や魚が大好きで、その豊富な知識量に子供ながらに一目を置いていた。魚について質問をすると、いつまでも説明をしてくれた日が懐かしい。海に行く約束、そういえばまだ決行していなかった。好きなものが変わっていなかったらとくにヒントが多そうなので、ターゲットとしてまず彼を選んだ。どうか大人になっても海や魚が大好きなままでいてくれ、そうだったらきっと、早々に彼にたどりつける確率は高いと信じた。

 そのやまは見事に当たった。

 元気に魚の写真をSNSに投稿している彼をすぐに発見した。元気な大人になっている姿を信じていたが、きちんとそのまま当たってまず安堵した。あの頃から海や魚好きはどうやら続いているみたい。いくつかアップされた写真から幸せそうな日々が想像出来る。連絡を一切とっていないのに、僕は自分よりも彼らの幸せを勝手にずっとあれから願っていた。これ、ほんと。ほんと、よかった。早速メッセージを送る。こうやって時計の針を進める。待っているだけはもうやめた。

 驚きと喜びが詰まった返信が届いた。僕と同じ気持ちで更に嬉しくなる。彼は大人になった現在、大好きな海に関連する仕事に就き、夢を叶えていた。大人になれるかわからなかった僕たち。あの頃、まさかこうやって夢が叶い、それを祝える日が来るなんて少しも考えられなかった。大人になれて良かった、彼の夢が叶って良かった。

 彼に返信をしながら、もう一人の会いたい人物を探した。まずフルネームでいくつかのSNS内を調べて回った。しかしアキと異なりヒットしない。女性だから本名で探せるように設定をしていないか、SNS自体利用していないかのどちらかだと推定される。英語やカタカナでも検索を試みたが空振りした。今の彼女と繋がる糸はないか、手を止めつたない記憶を遡る。好きな映画や音楽は覚えているが、大人になると変化はつきものだからあてにはならない。ヒントになりそうな住んでいた場所もはっきりとはしない。名前もだめ、好きな映画や音楽もだめ、住所もだめとなると、あれ、もしかして打つ手ってないのかもしれない。

 ダメ元でアキに彼女の消息を尋ねた。

 彼は僕と違って仕事をするまでやりとりをしていたらしい。現在の連絡先はわからないものの、元気に大人になれていると知って安心した。ほんとよかった。アキにもだが、あの当時彼女にも沢山闘病するにあたっての勇気をもらったお礼を伝えたい。僕らは同志だ。闘病した僕らにしかわからない想いがある。あの辛い日々を乗り越えた仲間。一言でいい、ありがとうを言いたい。喜んでくれたら嬉しいな。

 アキから「住所はわかるから手紙を送ろうか?」と提案を受けた。確かにそれはアリだね、と返信する。引っ越しをしていない限り届く。しかし、出来れば僕は今すぐ彼女と繋がりたかった。

 何かないだろうか。必死に頭を使う。片っ端に彼女について知っている情報の断片を検索にかけた。だめ、だめ、だめ、だめ、としばらく不発が重なっている時、ふと彼女の病名が思い浮かんだ。これならどうだろう?とそのキーワードを投げると、見事、彼女の個人ブログに繋がった。

「やったー」思わず声を上げた。

 彼女は、自身の闘病経験をブログに記していた。好意的な反応や、検索順位からそのブログが人気な事がわかる。その中身も勿論良い。克服したからこそ、今同じ病気と闘う人や家族が病名を調べた時に、きちんと大人になれた人もいると知って希望を持ってほしいと記しているのが、彼女らしいと思った。そして体温の宿るやさしい言葉に癒された。久しぶりに彼女と文字を通してだが繋がれて心が躍った。彼女は今もブログを更新していた。楽しそうな近況が更に僕を喜ばせる。ブログ内からメッセージを飛ばす。それに躊躇なんてしないし、勇気もいらない。アキにもそのブログの存在を伝えた。驚いたが、彼女らしいという感想に同意する。


 こんなに待ち遠しい日ってこれまでにあっただろうか。会いたい人にやっと会えるのだ、無理もない。約束した時間のだいぶ早くに着いて2人を待った。やりとりをしたのはたった数日前。すぐに僕らは彼女主導の元会う事になった。その強引さはあの頃と変わっていなくて笑えた。

 先にアキが到着した。大人になった姿は写真で確認済みだが、しっかりとあの頃の面影があった。会うのは12歳の僕の誕生日以来。喜びが爆発し、僕らは会うなり抱き合った。言葉も溢れる。伝えたい事、聞きたい事が山ほど僕らにはあった。そうしていると、後ろから声をかけられた。振り返るとアスカがいた。ふいに現れて2人して驚いた。

「なに驚いているのよ、ほら、私にも喜んでよ」

 アスカは大人になってもアスカだった。強気なアスカ。大人の前では滅多に弱音は吐かず、病気と闘い抜いた。その笑顔を久しぶりに見ると、一気にあの頃の自分に戻った。

 2人は僕の夢を肯定してくれた。「全部の病院で色んな写真や絵を飾りたい」という夢を。そしてそれだけではなく、「一緒にやりたい」と手もあげてくれた。まだ一つも実現していないのに、この夢を見るのが1人じゃない事に涙が出そうな位嬉しかった。仲間が出来た。仲間は遠くを探さなくても、こんなに近くにいた。気づかなかった。気づけて嬉しい。

「絶対素敵じゃん、それ。やろう、そうだよね、私も色んな絵とか写真をそういえば見たかったんだよね、検診待ちの時とか、診察中とか。そういうのがあったら、気がまぎれるしね。そっか、あの頃と変わっていないんだね。私も通院が終わってからは行っていないから知らなかった」

「僕も是非やりたい。やろう。まだ子供だったから言えなかったんだよね。あの壁とか、まだ何も飾られていないのって悲しいな。色んな絵とか写真があった方がいいね。僕は海の写真をあの壁一面に飾りたいな。そうなったらきっとみんな嬉しいはず。あの頃の僕だったらきっと飛び跳ねて喜んだと思うよ。そうしたいね、ほんと」

「海の写真いいね、癒されるね、あの頃から海好きだったね。そういえば、あの病院の壁に海の写真が飾られている夢を見た事あるんだよね」

「え?それって本当?そういう夢、僕も見たよ」

 偶然だろうが驚いた。まあ、海が好きな彼なら見てもおかしくない夢だ。電車に乗って病院に行ったあの不思議な夢。あの夢を、僕らはこれから夢で終わらせないようにする。挑んでも、実現するかは現時点のここの誰にもわからない。だが、二人がいるのは心強い。もう一人じゃない。きっとこの夢叶えられるはずだ。
 食事をとりながら作戦を練った。通院していた所は電話でお願いしても不可能であった事や、自分なり立てた実現していない理由の仮説も伝え、何をするか?と意見を交わす。アスカは「もう一度電話をするべき」と主張し、アキが「もう少し考えよう」ととめた。僕らは別の道を探った。これはどうかな?と次々に案が出るのが嬉しい。コーヒーを飲みながら話し合う。子供の頃はお茶や水だったのがコーヒーになっていて、改めて大人に僕らはなれたんだと実感する。

 大人になれてよかった、そうだ、大人になれてよかった、元気になれてよかった。「元気があれば何でもできる」というのが誰かの言葉であったけど、ほんとそうだと思う。大人になると仕事などで悩みがどんどん増えて、多くの人は子供の頃は良かったと言うが、僕はそうは考えない。子供の頃は楽しい事もあったけどしんどい時間が長かった。朝起きてどこもしんどくない、それだけで僕は幸せを感じる。僕にも勿論悩みはあるが、あの経験のおかげで今ある幸せを見れる人間になれた。経験しなくていいならあの経験は避けたいけどね。僕も、みんなもきっと今幸せな事は沢山ある。一方で幸せじゃない事もそれなりにある。これは誰もがそう。幸せそうに見える人も、そうじゃない事ってきっとあって、それを抱えて生きている。色々あるけど前を向いて笑っている。僕もそういう人間でありたい。ないものを数えたらいっぱいある。あるものも数えたらいっぱいある。どっちを見て生きるか、どっちを数えて生きるかは、自分で選べる。僕も人間だから落ち込む時あるし、悩む時もある。ないものばかりを見てしまいそうになる。幸いにして、僕のこの身体には生まれてすぐに刻まれた手術跡がある。これを見ると、簡単に今ある幸せに感謝したい気持ちになれる。手術跡がない身体ではないが、ないからこそこうやって得たものがある。僕はないものがある。ある人にはないものだ。今ある幸せに感謝していたい。

 アスカにブログを書くのをすすめられ、その日のうちに開設した。

「夢はただ思うだけでは叶わない。話したり、書いた方が叶うって何かの本にそういえば書いていたんだよね。ほら、叶うっていう漢字も、口にたすって書くじゃん」と言われた。口にたすってどういう事?と意味がわからないまま僕は書き始めた。それが正解か不正解かもそもそも誰にもわからない。だったら、いいかも?と少しでも思えたらやるべきだろう。「何もせず調べているだけではちっともこのスタート地点から進まない。正解かわかないが、ブログは書き続けると一つ一つがネットの中に残り、僅かでも進めている気がするのもいい」とアスカにそう背中を押された。

 それぞれにはこれまでの日常があるから、もっぱらやりとりはネットの中へと移行した。仕事や予定もあるから頻繁に会うのは難しくとも、ネットを通すとコミュニケーションが円滑に進む。今の時代に生まれて良かったと思える瞬間。あれからいくつかの病院に問い合わせをしたものの、そのどこからも良い返答はなかった。一番の目標はお世話になった病院での展示だけど、可能ならば他の病院でもさせていただきたかった。挑めば挑む程、この挑戦がいかに困難かを痛感させられていく。ことごとく断られてしまう。どうして無理なのかも全員で考えた。前例がないから?面倒だから?忙しいから?大変だから?それ所じゃないから?そのどれもが理由になりえる。一つに、病院が日々の膨大な業務に追われているというのがある。おそらく、展示どころではないのだろう。だからこそ、外部の僕らに任せてもらえないだろうかと思うのだが、僕らは無力であった。力が欲しい。物欲なんてあまりないからお金持ちを目標にしてこなかったけど、僕が大金持ちだったらこの夢って一瞬で叶うのだろうと考えると、初めてお金が欲しくなった。自分の為ではなく、この夢を実現する為。お金は目標ではなく、目標を叶える為の方法の一つ。試しては考え、また挑んでは話し合った。その中でも僕はブログを書く手を止めなかった。何故この夢を持ったのか、何故この夢を叶えたいのか、誰の為に叶えたいのか、どこで叶えたいのか、どういう未来にしたいのかを、何度も文字にした。ブログを書くなんてこれまでなかったし、毎日何かを続けた経験もなかったのに、不思議と継続出来た。仕事が忙しい日や、予定が詰まっている日も僕は画面と向き合った。別に誰かに絶対毎日書きなさいと命令された訳ではない。今日はやめておこうとした日もあった。それでも僕は書いて、書いて、書いた。それは、単純にやらない理由より、やる理由の方が勝っているからなのかもしれない。このやる理由に勝てるものってなかなかない。この夢を実現したいという想いは本当で、僕は本気で、いたって真剣だ。本気になった大人は強い。真剣になった大人は強い。誰かの為に生きる大人は強い。

 どれ位書いただろうか、いつしか書くのが習慣になった。今日もさあ書こうとしたら、前回の記事に「コメントあり」という通知に気づいた。コメントを見ると、「もしかしたら展示する病院を紹介出来るかもしれません」と記されていた。こういう内容のコメントは初めてで心がざわついた。すぐに僕はそのコメントに返信した。何度かメッセージを重ねた結果、なんとその方の関係ある病院の医師にホスピタルアートのお願いをする機会を作っていただける事になった。思いもよらない急な展開に戸惑うも、「是非、お願いします」と伝えた。アスカとアキに報告を入れた後も、一連のこの流れが夢の様に感じて自分の頬をつねって夢じゃないかを確かめた。痛いから夢じゃなく安心する。まさか、だ。まさか、こんな嬉しい提案をいただけるなんて、映画みたいだ。しかしこれは映画ではない、僕の人生、僕の物語だ。これまで生きてきて、こんな奇跡ってふってきただろうか。夢じゃないよね、と。まだ実現は決定していないから喜ぶのは時期早々、それでも僕は喜んだ。このまま実現へと進めるのが一番嬉しいが、こうやって手をさしのべてもらえた事が何よりも嬉しかった。何度も断られたし、「どうせ無理だろう」、「実現なんてしないよ」、「前例ないじゃん」僕の心をえぐるこういう言葉を何度かけられたかわからない。その度に「そうですよね、難しいよね」と言ったり、反論をしなかったが、確実にそれらは僕の心に傷をつけていた。こういう言葉を言われても、早い段階で反論はしないと決めていた。僕はそれぞれの人生、それぞれの考え方があり、それぞれ生き方や考え方は迷惑をかけなければ違っていいと考えている。だから僕も例え僕と違う意見にも否定したくなかった。

 振り返ると学生時代から大人に否定をされてきた自分がいる。とにかくそれが嫌だった。否定に否定したら、自分が嫌いな人間になってしまう。だから僕はリングに立っても打たれるだけか、自らそっと降りるかにしてきた。そんな僕も人間だから嫌な言葉を浴びると嬉しくはない。ロボットじゃなく、人間だから。この夢を見るのはおかしいのかな、間違っているのかなと心が揺らいだのも一度や二度じゃない。友達と思っていた人にも否定された。友達伝いに、誰誰が批判しているとも聞かされた。陰で悪口をばら撒いている人と実際に会った時、普通に接してきて人間不信になりそうにもなった。ただ僕は自分の人生で、夢の為に試行錯誤をしているだけなのに。別に誰かに直接迷惑をかけたり嫌がらせをしている訳ではない。それなのに、何故頼んでもいないのにわざわざ不快になる言動をしてくるか理解に苦しんだ。応援してほしいけど、そうじゃないならほっといてほしかった。少なくとも僕はそうしている。やるべき課題が山積みで、関係ない人の人生を見る余裕がないだけというのもあるけど、それをしてくる理由も意味もわからなかった。「無理し過ぎでは、休んだ方がいいよ、そんなに頑張らなくていいのでは?」一見優しく感じる言葉もかけられるが、それに従った所で夢が叶う可能性は低いと判断して僕は止まらなかった。「応援している」と言われて、「それって応援というか声援だよね、ごめん、まだうまくいってないから声だけかけられてもありがとうって心から言えないよ」と口からひどい言葉が出そうにもなった。うまくいっていたらきっと気にもならないのに。しんどくないと言えば嘘になる。僕も人間だ。ガス欠間際な中、それでも手を、足をとめさせなかった。時には休憩も必要なのは十分承知している。それもわかった上で進んだ。人生はたったの一度しかなく、二回も三回もない。二回も三回もあるならば、休憩を多く入れたかもしれない。しかし、この僕の人生はたったの一回だけだ。だからこそ、後悔はなるべくしたくない。全力で挑み、それでも不可能であった場合と、全力で挑まず、不可能であった場合とでは後悔の差は限りなく大きいだろう。だからこそ、本気を出した。だからこそ、色々あっても進んだ。だからこそ、今回の言葉に僕は大きく救われた。

 必死に夢への想いを伝えた。机の上には持参した資料がある。身振り手振りも交えながら、何故この夢を抱いたのか、自分の闘病経験、その時の声に出せられなかった願い、医療現場への感謝、掲げる未来、医師はじっと耳を傾けてくれた。忙しい業務の合間なのは承知している。簡潔に話すべきなのもわかっている。だが、話し終えた次に聞く言葉が怖い。あっという間に僕の説明が終わった。不安で心臓が押しつぶされるより先に、医師に「いいですよ」と笑顔で言ってもらえた。

「え、ほ、本当ですか、ありがとうございます」ここが病院じゃなかったらきっと僕は喜びのあまり叫んでいただろう。

「君の病気の事、夢の事も事前に聞いていたしね。いいんじゃないかな。素敵な事だと思うよ。そうだね、確かに殺風景だよね。みんな忙しさのあまりこういう所は後回しになってしまっているんだよな」

 どうやら、話をする前に紹介していただいた方からきちんとした説明を受けていたみたいで、なんて良い人なのだろう。「ありがとうございます」紹介していただいた方にも感謝の気持ちを伝えた。この方たちに繋いでいただいたからこそ実現する。医師が診察に戻ると、再度2人に頭を下げてお礼を言った。やっと、やっと夢が叶う。叶えていただけた。

「いいよ、いいよ。ほんとよかったねー。嬉しいね。これから楽しみだね。私たちも嬉しいよ」

 ここに通院している方と、そのご両親のお力でこの場に立てた。ここに来るまでがとてつもなく長かった。出口のない迷路をひたすら進むだけで、出口なんて全く見えなかった。ずっと暗くて光の射す方がわからなかった。だが、こうして出口があった。光が突然差し込んだ。通院が終わった日のような感情だ。これまで見ていた景色がより一層明るくなった。このまましばらく幸せな時間に浸りたくなるが、ずっと考えていた疑問を聞いてみた。

「嬉しいです。ありがとうございます。夢を叶えていただき、ほんと嬉しいです。お二人のおかげです。お二人が繋いでいただいたからこそ、実現します。嬉しいです。あと、嬉しいけどわからなかったのですが、どうしてこんなに力になっていただけるのでしょうか?」

 そう、初めてコメントを残してもらってから、ずっとわからなかった。どうしてこんなに力になってくれるのだろう、どうしてこんなに手をさしのべていただけるのだろうか。

「ブログ読んでみて、頑張ってきたの知っているし、あなたが当事者だからだよ。大きな病気で生まれて、すぐに手術して、ずっと通院していたんでしょ。私たちもそうだから、その夢を叶えてあげたくなったの。私たちだからこそ、もしかしたら叶えられるかもって思ったしね」

「当事者だから」この言葉に僕の心が揺れた。

 僕は当事者だ。生まれてすぐにお腹を手術して、0歳から12歳の誕生日まで通院していた。何度もあの緑の電車に乗り、椅子に座って本を読むのに無理やり没頭し、何度も診察室に入り、我慢を重ねた。だからこそ、今闘病している人たちの気持ちがわかる。声になっていないけど、絶対みんないろんな絵や写真を見たいはず、と信じてきたけど、そりゃあそうだ、僕は当事者で、僕がそれを見たかったのだ。どうしてこんなにわかるのか疑わなかったけど、当事者だからこそわかって当然だ。これ、当たり前過ぎて深く考えてこなかった。僕は当事者であり、こういう病院にずっと通っていた。だから気持ちがわかり、その視線の先がどこにあるのかもわかる。当事者だからわかる事だらけ。その願いをかたちにする。その夢を叶える。

 夢だけど、夢じゃなかった。

 写真を壁に設置する作業中、何度も感動のあまり涙が溢れそうになった。無理もない。やっと叶うのだ。平たんな道のりではなかった。ひょっとすると、この夢は自分が生きている間には実現しないのかもという考えもよぎっていた。感情が高まっているのはアキもアスカも同じだった。前髪とマスクの間から見えるその瞳が潤んでいる。僕だけじゃない、これは僕たちの夢だ。これは夢だけど、夢じゃなかった。次々に作製してきた写真パネルを壁に貼っていく。途中、看護師から声をかけられた。全員へは説明がいきわたっていなかったみたい。医師や師長の許可があると伝えると、「素敵ですね、どうしてこういう事をしているの?」と素朴な質問を投げかけられた。「自分たちの闘病経験を簡潔に話し、闘病している子供達やご家族、働いている方の為にしています」と説明をすると、一気に距離が埋まったのを感じた。そりゃあ、いきなり見知らぬ人が壁に写真を設置していたら意味がわからないよね。だけど、している理由を話すと、態度が変わってもらえて素直に嬉しい。やはり、誰がやるかと、何故するかという理由は凄く重要みたいだ。僕からすると、こういう闘病経験がなくても、シンプルにしたいからというだけの理由でも充分な気がするのだけども。いつか、そういう理由でみんなが気軽に病院で様々な絵や写真が飾られるようにしたい。その方が僕は素敵だと思う。どうせ生きるなら、そういう未来で僕は生きたい。これ「この写真はどこで撮ったの?」「私もダイビングした事あるんだよね」といつの間にか別の看護師や医師も集まっていた。好意的に見てもらえて嬉しい。「いいね、みんな喜ぶよ、ありがとう」心と身体が嬉しさのあまり震えた。震える位嬉しい。あまりにも嬉しいと、心と身体が震える場合がある事を初めて知った。全てのパネルの配置を終えるとすぐに病院を後にした。感染症対策はしているものの、長居はすべきではない。

 「夢だけど、夢じゃなかった」ついに声をあげて何度もこのずっと言いたかった台詞を叫んだ。全員で「感動したね、嬉しいね」と喜びを分かち合った。一人ではたどり着けなかった。この二人がいなかったら無理であった、ご紹介いただいた方たちの優しさやお力がなかったら叶わなかった、職員さんのご協力がなければ今日という日を迎えられなかった。感謝の気持ちでまた涙が流れる。一人で叶えた訳ではない。あきらめずに頑張ってきて良かった。心が折れかけてもまた立ち上がって良かった。生きてきて良かった。報われるかわからない日々が今日、報われた。

 「この活動をどんどん広げていこう」とギアを上げている所、感染症が世界中に暗い影を落とし始めた。それはあらゆる業種、あらゆる場所に影響を及ぼした。取り組むホスピタルアート活動も漏れなく受けた。話し合った末、展示するパネルを簡単に設置できるようにこちらで作製し、郵送する形に変更をして対応した。自分たちが現場に出向いて設置するよりもこうする事により、接触機会がなくなり、感染リスクを下げられると考えた。この活動を停止する案も出たが、平時よりも通院や入院をしている人たちの行動が制限された中、今こそこのホスピタルアートの意味も増すと信じた。自然の綺麗な写真を病院の一角に飾る事により、少しでも癒しを感じとってもらいたかった。誰もがこれ以上の広がりを願わなかったが、その想いも空しく感染症は拡大の一途をたどり、僕たちは今後のホスピタルアートの実施を懸念した。「しばらくはやはり難しいか」当初はそう予測していたが、それは良い意味で裏切られた。ホスピタルアート活動は止まらなかった。一つ一つ、展示先が決まっていった。これまでと違い、話を聞いてもらえるようになった。やった事があるとないとでは、こうも違うのかと肌で感じた。思うと、実際にやったでは雲泥の差がある。設置写真を提示するとイメージもしやすいのかもしれない。応援をしてもらえる人も増えた。現場から患者さんの喜びの言葉も届いた。この取り組みはやりがいだらけだと改めて感じ、尚更僕らは頑張った。職員さんから感謝されるのも嬉しかった。こんなに多くの方に感謝されるってなかなかない。嬉しい出来事ばかりだが、それだけではやはりなかった。何事も、嬉しい事、楽しい事だけではない。それはこの活動でも同じ。くやしい事、落ち込む事、憤りを覚える事、不快な事、実に多くの経験したくもない問題がふりかかってきた。その度に、「こういうのがあるから夢の途中であきらめたくなるのかな、嫌だけど僕は進む」と手を緩めなかった。僕は嫌な記憶をなるべく頭から切り離して前を見た。ズルズルとそれらを考えていてもちっとも楽しくない。それらに頭の中を支配されるのもごめんだ。覚えていてもプラスではないものは忘れるべき。考えられる最悪なダメージではない限り、被害者としてずっと生きる道は選択肢にそもそもない。それよりも僕は今ある幸せや楽しい景色の方を向いていたい。子供の頃の自分がもし今の自分を見たとしたら、どっちを見ている大人が好きかは一目瞭然。だからそういう生き方を僕は選ぶ。ずっと誇れる事しかしてこなかったと言えば嘘になる。情けない事もしたし、ダサい事もした。この過去は変えられないが、未来は変えられる。この時点から先の人生は過去の自分が決めるのではない、今のこの自分が決める。

 各国の脅威となっている感染症によって医療現場が大変な状況に陥りつつあった。誰もが不安を覚え、心も落ちた。ワクチンを開発したり治療は出来ないが、自分にも何か出来ないかを真剣に考えた。働く方への感謝を伝える為にも、流行する前にホスピタルアートを各地で実施出来ていればよかったと悔やんだ。あらゆる仕事が悪い方向に進み、多くの人の気持ちも下がっていく中、ただそれを傍観するしかないのか、本当に無力なのか、前向きに考えた。油断すると、マイナスな部分や自分の力ではどうする事も出来ない面で悩んでしまう。前向きな人間でもこうなのだから、普段からそうでない人はもっと大変なのだろう。僕たち大人は、無力なのか。いや、違う。僕らのこの目はまだまだ死んではいない。明るい話題を作ろう、ないなら作ればいい。楽しい事をしたり、楽しい事をするから楽しいと思う。今は楽しい事をするのが色々難しくなっているが、楽しい事を見るのは可能なはず。自分だからこその、世の中への貢献方法はきっと写真だ。ホスピタルアートで使用しているこの写真を、病院以外でも展示をしたい。そして、少しでも多くの人の心を癒したい。みんなにエールを贈りたい。

 どこで展示をしようか。駅、商業施設、イベント会場、公園、どこが最適なのだろう。病院でしか展示をしていないので、どこが最適かや、どうやったら可能になるかも知らない。まあでも、なんとかなるだろうと楽観的でいた。どこだとしても、病院での展示よりは難易度は低いだろう。「夢は書いたり話した方が叶う」をまた実践する。病院以外で展示をしたいと書き込んだ。すると、「ホテルでの展示はどう?」という提案を受けた。聞くまでは全く候補になかったが、ホテルも素敵だとすぐに思った。他業種同様、ホテルも感染症の影響で客足が遠のいているらしく、展示を通して少しでも貢献したくなった。アスカとアキにその決定事項を連絡すると賛成してくれた。仲間がいるって最高だ。僕らはさっそく各自で準備に取り掛かる。ホテルでの展示は初めてで、不明な点も多い。しかしもっと未知な病院での展示を経た僕らは強い。わからなくても動じない。

 今回も「どうせ無理」と言うのを禁止にして良かった。「どうせ無理」は魔法の言葉。わざわざ可能性を自らつぶす必要なんてない。やる前から無理とかなんて、やってもいないのにわかる訳ない。やる前から無理なんてない。そして僕はまだ「どうせ無理」とあきらめていたあるものを思い出した。散々、「どうせ無理」はもう言わないと宣言したのに、まだそれをしてしまっていた。まだまだ自分は未熟だ。一番の夢、一番叶えたい夢、今こそ叶えたい、叶えるべき夢。それを叶える時はいつだ、数年後、数十年後、違う。その夢を叶えてほしいと願う人を僕は誰よりも知っている。電車に乗ってアキの願いが叶ったあの不思議な夢を、現実世界で実現するのは今だ。それを実現するのは僕らだ。あの夢はアキも見たと言っていた。ああいう夢を見ている子供はきっと沢山いる。僕は魔法は使えないし、またあの夢を見る方法もわからない。だが、そんな僕でもこの世界であの夢は実現出来る。夢を見るのではなく、今度は夢を叶える番だ。

 「やってみないとわからないじゃないか」「どうせ無理って誰が決めた」通院していたあの病院に再度問い合わせを入れた。手術と通院を経験した当事者だと明かし、何故展示をしたいか?という理由や、これまでの展示先の実例を熱い想いと共に伝えた。

 すると、許可が下りた。

 願いが届いた。夢が、叶った。
 まずは写真パネルを郵送し、開催する。そして感染症が収束し次第、自分たちが出向いて写真を設置する運びとなった。

 感染症の流行もそう長くは続かないはず。ワクチンも開発され、あとちょっとでこのどんよりとした霧も晴れるだろう。きっと大丈夫。僕らは乗り越えられる。これまでも誰もが大なり小なりの大変な経験をしてきている。大丈夫、僕たちなら乗り越えられる。きっともうすぐ、またみんなで集まって、「あの時は大変だったね」と言い合える日が訪れる、その日を信じて。僕らは一人じゃない。今あるものは沢山ある。未来は明るい。もしそう思えないなら、明るい未来を作ればいい。楽しい事、いっぱいしよう、楽しい事、いっぱい見よう。みんな初めてそれぞれの人生を生きている。そりゃあわからなかったり、困ったりもするし、落ち込むよね。これまで頑張ってきた自分をもっと肯定していい。もっと褒めていい。僕らは頑張っている。だからこそ、たった一回だけのこの人生、いっぱい楽しんでいい。


 感動の涙が流れるのを必死に我慢しているのをアスカに気づかれた。やばい、と思ってアスカの方を見たら、アスカはアスカで既に泣いていた。なんだよ、泣いてるの一緒じゃん、嬉しすぎて感動しているの同じじゃん。アキが「はいはい、お二人さん、嬉しくて泣くのはわかるけどさ、作業は進めよう」と僕に写真パネルを渡した。そのアキも目に涙を浮かべている。無理もない。ついに、僕らの夢が叶うのだ。いくらでも泣いたっていい。
「すごいね、この写真展示してくれるの?」
 看護師さんに声をかけられた。
「嬉しいなー。ありがとう。みんな喜ぶよ」
 先生もそう言って喜んでくれる。
 これは夢だけど、夢じゃない。

 君と見たい景色がある。君に見せたい景色がある。




 完



 読んでいただきありがとうございます。この小説はフィクションですが、ホスピタルアート活動を実際に行っています。日本全国で実施する事を目標に活動しております。

プロフィール

大阪梅田でダイビングショップをしています。





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