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はたらくを考える
ものごとの順序
僕が尊敬する師匠のお一人は沢山歌を残されているのですが、その中にこんな一首があります。
混んだ列車に 乗ったというが
間に合って 乗ったら混んでいたという順序
東京に住んでいた頃、満員電車に乗ることがありました。あまりに混雑していると「あー、しまったな」とか、ともすれば「ツいてないな」と思うこともありました。
しかし、この歌はその手前にあるはずの「間に合った」という事実を抜かしてしまっていることを指摘します。仮に朝の通勤電車だとして、その日の朝から考えてみましても、朝に目覚め、身体が動き、駅までの道中に事故がなかったからこの電車に間に合い、乗れている。でも、出勤中の僕はそんなことを思いもしません。それらは「当たり前」のことだからです。
また、ついつい色んなことを自分の力でやっているような気になることがあります。しかし、先ほどの例をとってみても、朝が来ること、目が覚めること、身体が動くこと、道中事故がないこと、どれ一つとして自分の思いどおりにコントロールできることはありません。多くの人やはたらきによって生かされています。そのうえで、辛いこと、苦しいことが起こってくるという順序なんですね。
そのようなわけで私たちは神様に向かうときに、まずお礼、次にお詫び、そしてお願いという順序でお祈りさせていただくように気をつけています。日頃の受けている恩を感謝せずにお願いばかりする人よりも日々感謝を忘れない人を大事にしたいと思うのが人間も神様も同じだと考えるからです。
徳のあらわれ
今年(2024年)は年始早々、痛ましい災害や事故が相次いでいます。それとは別に私の身近なところでも悲しい出来事がありました。
元日のことでした。元日の朝は私たちも元日祭というお祭りをお仕えします。お祭りも終わりに近づいた頃、教会の電話が鳴りました。私が電話を取ると、よくお参りに来られるご婦人の声でした。
「今朝息子が亡くなったんです。」
まだ40代半ばでした。息子さんは病床に臥していたわけでもなく、その日もお元気でした。そして、いつものように自宅前で一服されていたところの突然のことだったようです。私は驚きで頭が真っ白になり、返す言葉が見つかりませんでしたが、ひとまず電話を終えました。葬儀の準備に取り掛からねばなりません。
本教の葬儀式
本教において、人が亡くなった際、次のような葬儀式をお仕えいたします。
終祭 :故人にかわって生前のお礼を神様に申し上げるお祭り
告別式・火葬の儀 :姿・形ある故人との別れを告げるお祭り
葬後霊祭:お葬式が終了したことを神様にお伝えするお祭り
お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、人を亡くしたときでさえ、まずはここまでの感謝を申し上げるということを大切にさせていただいています。
終祭、告別式と、お供えする玉串がまったく足りないほど大勢の会葬者で斎場はあふれていました。なかには終業後急いで駆けつけたのでしょう、職場のユニフォーム姿の方もいらっしゃいました。そうまでしてお別れに来たいと思わせる何かが故人にはあったのでしょう。
私たちはそれを「徳」と呼びます。働いて貯めたお金をあの世に持っていくことはできませんが、「はたらいて」積んだ徳はあの世にも持っていけると古来より考えられてきました。長く連なる会葬者の列は、この方が生前に積んできた徳の一つのあらわれだろうと感じます。
はたらくの語源
諸説あるようですが、「働く(はたらく)」という言葉は「傍(はた)」、つまり周りの人を「楽(らく)」にするという意味に由来するとも言われます。
私が楽になれば良い「わがらく」ではないんですね。昨今、利他という考え方が脚光を浴びていて「利他学」という学問も生まれていると言います。ですが、もしこの語源が正しいなら、それより遥か昔から、私たちのご先祖たちはそれを当たり前としてきたことになります。
また「生業(なりわい)」という言葉を耳にしたことがある方は多いと思います。ふつう「生活の糧を得るための仕事のこと」を指しますよね。「業」という漢字には仏教で言われるような「カルマ」の意味もありますが、調べてみると「苦労して成し遂げる事柄」という意味があるようです。
言葉遊びになってしまいますが、この意味をもって「生業」を眺めてみると、生涯をかけて成し遂げる事柄やそのための行いという意味が浮かび上がってきます。
私が好きな本の一つに内村鑑三さんの『後世への最大遺物』という講演を収録したものがあります。内村さんはタイトルのとおり、この講演の中で「後の世に対して残せる最大の遺産は何か」について話しています。内村さんは、お金や事業、思想や文学の大切さについて語ります。そして「しかしながら」とこう続けるのです。
「日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏はLife 生命 の欠乏であります」
そして、たとえ後世に残すものは何もなくとも、あの人は真面目な生涯を送った人であると言われるような生涯を後世に残したいと言います。私はこの欠けたLifeを満たすものこそ、はたをらくにする働き方や、生涯をかけて実現すべきこととしての「生業」ではないかと思うのです。
ある友人の話
学生時代からの友人は営業マンをしています。年上に可愛がられ、押しが強い性格ということもあり、これまでそれなりの営業成績を収めています。しかし、最近その友人と話すと違和感を感じます。
他愛ない話をしているうちに「あと数万円で表彰されるんだけど誰か紹介してくれないか」という話になります。どれほど仲が良かったとしても、さすがにこのタイミングで大切な知人を紹介することはできません。なぜなら「私が楽になる」働き方になっているからです。これでは順序が違います。
綺麗事に聞こえるかも知れませんが、評価や自分への見返りは後からついてくるもの。もちろん会社として追うべき予算はありますが、あくまでよい提案を続けた積み重ねであるはずでしょう。
友人を吊し上げるようで申し訳ないですが、かつての僕にもそのような一面があったと思いますし、少なくない方がそれを当たり前にしているように感じます。世の中全体として「はたらく」ではなく「わがらく」な働き方が蔓延しているのかも知れません。
今日、自分が死んだとしたら?
僕は時々「今日、自分が死んだとしたら?」ということを考えることがあります。「部屋を片付けていないな」とか「学生時代のイタいポエムを処分しなくちゃ」とか下世話な話が多いのですが、それと同時に「幸せな人生だったろうか?」「弔辞を読んでくれる人は居るだろうか?」「周囲に何か遺せただろうか?」という問いもやって来ます。
十分な徳を積めただろうか?きっと確信を持ってYESと言える日は来ないだろうと思いますが、少なくとも「精一杯はやりました」とは言えるだけの「はたらき」を積み重ねたいと思うわけです。
花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう
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