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むしろ宗教を日常に還す必要があるんじゃないだろうか。

安倍晋三氏を銃殺した男は、殺害理由としてある宗教団体への怨恨を供述していると言う。母が宗教団体にのめり込んだことをきっかけに男の家は破産したらしい。この事件ならびに報道により宗教を排除すべきとする論が強まると懸念される。しかし、むしろ必要なのは宗教を日常に還すことではないだろうか。このようなことについて考えてみたい。

宗教にのめり込むということ

本来、宗教にのめり込む状態は誰にとっても望ましくない。本人や家族が助からないのは言うまでもないが、実は宗教団体にとっても同じだ。

宗教団体は一時的には経済的に潤うかも知れない。しかし、本人が助からないのであれば「人びとが助かる」という存在意義に沿わない。無論、同じ理由により神仏も喜んでいるはずがない。

仮に存在意義は建前で純粋に利潤を目的として活動する団体を想定したとしても、やはり望ましいとは言えない。不幸な信者の姿は、周囲に悪いイメージを与えるし、その家で数世代にわたって続くかも知れなかった信仰の可能性を断つことになる。したがって、利潤を目的に活動する団体を想定したとしても、細くとも長い関係性の方が合理的であると言えるだろう。

そもそも、神社仏閣の経営を見ると苦しい場合がほとんどだと言う。経済合理的に考えると別の選択の方が望ましいと考えられる。それでも神社仏閣に従事し続けるのは、経済合理性以外の動機があることの証拠だろう。そのような宗教家たちが、生活を破綻させる信者を望んでいるはずがない。よっぽど詐欺的な動機(短期で多額をせしめてトンズラしようという動機)の人間でもない限り、「宗教」にのめり込み生活を破綻させようなどとは誰も思わない。そして、その場合は「宗教」と呼ぶには相応しくない詐欺グループの問題なのであり、宗教団体とは一線を画していることに注意されたい。

宗教は不要だと切り捨ててしまう危うさ

仮に宗教団体を反社会勢力のように日常から排除するとしよう。
やり場のない感情の受け皿となっていた宗教が無くなり、感情はどこへ向かうのか。ある人はアイドルやスポーツチームに情熱を注ぐかも知れない。あるいは酒やカラオケに向かう人もいるだろう。しかし、それらによって日頃の鬱憤は晴らせても、問題の根本は解消されることがない。それは多量の出血があるにもかかわらず痛み止めを打ち続けて生活を送るようなものだろう。特に生老病死に関することについては明確な答えはない。医者は病名や治療方針を告げることはできても、その心の問題には寄り添うことができない。そもそも社会的意義の大きさを無視して、問題があるから排除しようと言うのは無理がある。交通事故が起こるから自動車を廃止しようと言うようなものだ。

さらに言えば、祈る気持ちは自然に湧き上がってくるものであり、排除しようとしてできるものではない。社会から排除した宗教に対して救いを求めたくなるのは、当事者が非常に強い困難に直面したときであろうかと考えられる。「藁にも縋る思い」と言うが、縋れるものなら藁にでも縋りたいのである。そのような時に甘い言葉をかけられたとしたら、悪徳な団体に騙されても無理はない。もし正常な判断ができる時ならそのような団体に加入することはないだろう。かえって安心できる信仰を日常のうちに持つことで、困難に直面した時にはそのような危険を排除できるし、すぐに拠り所を見つけられる。その点において日常に宗教を取り戻すことが必要だと主張したい。

家庭に宗教を取り戻す

いまや個人主義は家庭にも浸透している。家族一緒にテレビを見ながらご飯を食べる時代は終わった。それぞれが自分のスマホの画面を見たり、あるいは仕事や塾から帰ったタイミングでバラバラに食べる。信仰においても元々は家族や地域ぐるみの単位で信仰をしていたはずが、現在は個人単位で信仰する。信じたいものを、信じたいときに、信じたいように信じるのだ。

もし家族ぐるみの信仰なら家庭を破綻に導くような献金などは発生しないはずだ。信仰の目的のひとつであろう家庭の円満が、信仰によって壊れていく異常さに気づける目があるはずだからだ。それも個人で信仰していた場合、グループ内における承認欲求など別の動機が強くなりかねない。また、信仰をしていない家族がのめり込む本人を説得しようと試みたとしても「自分の支えになっている宗教のことを何も知らないくせに非難してくる」とかえって対立の溝を深めてしまうこともあるだろう。家族ぐるみで日常に信仰を持つということが大切なように思える。

本来の信仰

あたかも宗教が社会を壊すようなイメージが漂っているが、信仰は本来その逆の力、すなわち困難に直面しにくく力を持っているように思う。信仰は倫理観とも深く結びついており、心を穏やかにして周囲とのトラブルを避ける方向にはたらくと考えられる(中には他宗などへの攻撃的な性格を持つものもあるだろうが、冷静な判断ができれば避けることはできるだろう)。

また、生活習慣においても極端なものを求める宗教は日常に出てきにくい。むしろ生活の場で目にする宗教は、生活の指針となるようなものばかりであろう。食事は節度を守り、よく働くーそのような教えに沿って生活をしていればそもそも病気などと出会いにくくなるものだ。

宗教とは明治以降にreligionの訳語として登場した言葉だという。それまでは仏道、神道、陰陽道などと言うように「道」だった。「道」を外れて茂みに入れば蛇や虫に噛まれるかも知れないが、「道」の真ん中を通っていればその心配はない。本来の信仰はそのような「道」だったということを考えると、「道」を廃そうという考え方がどれだけおかしなものか分かってくる。

「宗教」的なものに関わる事件を宗教の問題だとして世間や日常から遠ざけた結果、宗教の実態が見えにくくなるのは当然の帰結だろう。見えにくくした結果、宗教と宗教的なものの区別ができなくなり、また宗教を遠ざけようとしている。アンダーグラウンドに追いやってしまうとまた奇妙なグループが生じかねない。社会で生じる困難に立ち行かなくなった人たちはやり場をなくし、そのようなグループにのめり込んだり、自ら命を絶ってしまったりするかも知れない。日常に信仰を取り戻す時が来たのではなかろうかと思う。ポジショントークだと切り捨てずに、どこか近所のお寺や神社、教会、お地蔵さんに行ってーあるいは横切る時でもいいと思うー家族で手を合わせてみてはいかがだろう。

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