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僕が修行に行ってきた話【Episode 3:反復がもたらしたこと】

新しいものを欲する。特別さを求める。人より先に。
目まぐるしく変わる流行。浪費されるモノ、コト、ヒト。大量消費社会。

スタートアップ企業に勤めていた僕も、大河の一滴。人と同じは嫌だ。前回と同じじゃつまらない。去年とは、昨日とは違うことがしたい。

差別化しなければ。成長しなければ。
その為には人とは違うことを。昨日とは違うことを。

修行期間中、この考えは改めさせられた。
今回はそのことについて紹介していきたいと思う。
イマに生き苦しさを感じる人へ。

修行とは「反復」

修行中、ある一冊の本に出会った。哲学者であり武道家の内田樹氏の『修業論』という本だ。この出会いで僕の修行は加速する。

著者は修業を次のように説明している。

修業とは、長期にわたる「意味のわからないルーティン」の反復のことである(内田樹『修業論』より)

因数分解すると、以下の3つの要素に分けられるだろう。

《修行の3つの要素》
①長期にわたること
②意味のわからないこと
③反復されるルーティン

いずれの要素も、眺めれば眺めるほど、「現代的」な価値観とのズレを感じずにはいられない。

①長期にわたること
現代は時々刻々と変化を続けている。昨日の常識が今日の非常識ということもある。短期的な結果を出せる「即戦力」人材が求められる時代である。その中でじっくり、ひっそりと長期的に修行を重ねることは「現代的」ではない。

②意味のわからないこと
詳細は次々回あたりのnoteに譲ります。何のためにやっているか分からないままやることは「非効率」であり、やはり「現代的」な感覚からすれば避けるべきことであろう。

③反復されるルーティン
本noteの冒頭のように、「現代」では常に新しいことを経験することで成長していくと考えられている。ルーティンに価値が見出されるのは、何かを省略(ショートカット)して有益な別の活動に集中するという文脈であることが多い。

いずれも「現代的」な視点から見たときには、理解し難いかも知れない。時代遅れな発想なのかも知れない。しかし、本当にそうなのか。僕が修行生活で感じた「反復」の価値について以下紹介したい。

修行は繰り返しの日々

修行中、僕はまさにルーティンを反復していた。あてがわれた役割によって若干の違いはあれど、同じ時間に起きて、祈り、洒掃し、食べて、寝る。寸分違わぬスケジュールが繰り返される。慣れてしまえば時間にあわせて身体が勝手に動くようになった。修行の意味のひとつはここにあるかもしれない。

映画「ベスト・キッド」はイジメに抗うためにカンフー修行に励む少年の物語だ。この映画には有名なシーンがある。修行をつけることになったジャッキー・チェン扮する師匠は、主人公である少年にこう命じるのである。

「ジャケットを脱げ、掛けろ、取れ、着ろ、脱げ、捨てろ、拾え、着ろ」

毎日、毎日。何度も、何度も。てっきり何か技を教えてくれると思っていた少年は遂に我慢の限界。少年は文句を言う。少年に、いきなり、師匠が殴りかかる。すると、驚くべきことが起こった。少年の身体は勝手に動き、師匠の攻撃をかわしているのである。カンフーの極意は、ジャケットを脱いだり、掛けたりという繰り返す稽古のなかにあったのだ。反復は身体に刷り込まれていく。

僕の修行中の話に戻る。修行先、毎日唱和する文言のなかに「日常の起居一切を行じる」という内容があった。日常の起居一切、つまり立ち振舞いすべてを修行として取り組むという意味だ。カンフーの極意を悟ることはなかったけれど、箒のひと掃き、食事のひと匙にひらめきを感じる瞬間もあった。ここで再び『修行論』から一節を引いてみよう。

まれに天才という人がいるけれど、それは修業が不要な人のことではない。天才とは、自分がしているルーティンの意味を修業の早い段階で悟り、それゆえ、傍から見ると「同じことの繰り返し」のように見える稽古のうちに、日々発見と驚きと感動を経験できる人のことである。(内田樹『修行論』より)

ルーティンの反復はあくまでルーティンを繰り返し、リピート再生ではない。
同じことのようでわずかな差異が生じる。そして、日々の繰り返しだからこそ差異を感知しやすくなる。差異を感知できれば、より感覚は研ぎ澄まされる。

何気ない毎日の往来。参拝道中の草木の色の移ろい。毛虫が姿を消して、蚊が出て、蝉、鈴虫、冬が来る。月は欠けては満ちて、満ちては欠ける。星座は少しずつ動いている。都会の真ん中でも感じ得たことかも知れないが、静かな繰り返しのなかだからこそ、大きな自然のダイナミズムに生かされている事実が感じられた。長きにわたり意味不明なまま反復して培った感覚が、確かにあった。

繰り返しを喜び生きる

本来は絶えず変化する方が不自然なのかもしれない。小さな違いはあっても大きなパターンの反復のなかに生きている。だとすると、繰り返しを喜びながら生きることができる方が幸せな生き方なのではないか。刺激に満ちていても激しい時代の流れにもがく日々は疲れる。いつか無理が生じてしまう。

全く同じ日はない。反復のような日々のなかに差異を、喜びを見つける。

「日々是好日」は女優・樹木希林さんの遺作となった映画だが、静寂の美しさが際立つ作品である。樹木希林さん演じる茶道の先生のセリフにこんな言葉がある。

「あたし最近思うんですよ。こうして毎年同じことができるってことが幸せなんだなあって。」

門下生たちと年始の挨拶をする際のセリフであり、まさに繰り返しの喜びを表している。この映画に出会い、茶道や武道など「道」に共通する価値観がそこにあると感じた。そう言えば、神主も神「道」であるし、仏教も仏「道」であった。宗教という言葉は近代化と共に西洋から輸入されたとも言われている。

僕たちは「現代的」な価値観をあまりに絶対的なものとして信奉してきたように思う。けれども、少し楽に、自然に生きるためにはそのマインドセットを相対化してもいいのかも知れない。「道」の上にヒントがある気がする。


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