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教育に焦点を―自由と放任の無責任

2023/5/11(木):教育に焦点を④
 投稿を開いて下さってありがとうございます。
 木曜日の今日は、教育について深堀をして考えていきたいと思います。

 今日は「自由」ということばについて、河合隼雄の著書から考えていきたいと思います。



自由と言う言葉の便利さ

 「自由」と言う言葉、何十年前から比べると現在は特に、まるでこの言葉だけが正しいことであるかのように皆、あまりにも便利に使われているのが現状であるのではないか。
 この問題について、河合は以下のように論じている。

 子どもが自ら「育つ」ことを強調するあまり、まったく放任しておけばよいと考えるのも誤りである。このことは、特に家庭教育を考えるときに大切である。子どもが自然に育つことを期待して、自由放任にしている、という場合、多くの親は親としての責任を回避するための弁解として言っていることが多く、子どもたちは、それをすぐに見抜いてしまう。こんなときに、子どもは非行を重ねたり、親に無理難題と思われるような要求をつきつけてきたりする。そして、ある少女が私に言ったように、「こんなにしても、怒ってもくれない」という嘆きは深くなり、ますます問題行動がエスカレートする。

「子どもと学校」:河合隼雄 P51~

自由という名の麻薬

 教育の世界に身を置いている人なら、非行に走ってしまう理由に親の無関心による孤独感や「自分を見て欲しい」という思いがあることは周知の事実。
 しかし、子どもの困りごとや孤独感、葛藤に対して無意識に逃げたい避けたいという感覚が、つい「子どもを自由に育てる」「子どもの自立心に任せる」と看板の元に子どもを放置してしまうのではないのだろうか。本質的な子どもへの興味のなさが、「自由な子育て」という大義名分のお陰で「まるで子どものことを考えている理想的な親」という錯覚を生み、子どもが「親の興味を図らないと不安」というところまで、孤立させてしまう…「自由」は保護者にとっても教育者にとっても、ある種甘美な誘惑の言葉であり、麻薬のようなものなのではないだろうか?
 今では「自由」と同様に「叱らない育児」のような言葉も流行ってしまって、「子どもが何をしても親は我関せず」でもまかり通ってしまったり、教育現場にまでその「理想の子育て」を持ち込むことを当然とする保護者も少なくないのが現状である。
 保護者への認知や問題提議ももちろん必要だが、教育者も「自由」の麻薬に毒されることなく、教育の本質を問い続け、自己研鑽することが大切なのではないだろうか。

 では、子どもが自由でありながら放任ではない教育とはどうすれば実施できるのだろうか。
 以下、河合の文献と、大村はまの教えから考えていきたい。

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