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祖父の傷と、全ての痛みを受け入れるということ。

亡くなってもう15年くらい経つ私の祖父は、九州の田舎の農家の地主の長男として生まれました。しかし祖父の父は酒が原因で若死をしたらしく、苦労があったようです。

祖父の若かりし頃は戦争中でした。不幸中の幸いにも祖父は身体が弱く戦争に行くことができませんでした。ちなみに祖父の名前は「国守(くにもり)」と言います。

そこからもなんとなく推察がつくと思いますが、「戦争に行けなかった」ということは、祖父にとって大きなスティグマとなったようです。本人は詳しくは決して語りませんでしたが、かなり抑圧的な、差別的な目にも遭ったのではないでしょうか。

さて9人兄弟の長男である祖父は、戦後に東京に出て電機技師として働く道を選びました。東京電機大学に夜間に通っていたそうですが、当時の勤め先の親方に許されずに出席が足りず、悔しい思いをしてやむなく中退したそうです。

その後も電機技師としてキャリアを積み、いくつか転職して大手企業などでも働いていたようです。(私が物心つく時には定年していました。)

母子家庭の私が生活と学費に苦労しなかったのは、祖父が貯めてくれていた財産があったからです。また私のことをいつであっても肯定的に受け止めてくれたのは、祖父でした。

そしてそんな祖父は晩年大事故に遭って、数年間苦しんだ後に亡くなりました。

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私にとって「最も共にいられないもの」は、抑圧です。理由ははっきりとは分かりません。しかし私も祖父の形質を継いで身体が細いので、もしかすると「軍隊的な抑圧」との相性の悪さが世代を超えてリンクしているのかもしれません。

祖父の時代、軍国主義によって課せられたスティグマは、跳ね除けるにはあまりに大きなものだったのだと思います。田舎の兄弟を背負いながら、「夜間大学を卒業させない」という職場の器の小さな嫌がらせに対抗することも困難だったのでしょう。

しかし祖父がしっかりと基盤を築いてくれたおかげで、私は多くの抑圧と立ち向かうことができます。祖父の傷を受け入れることで、自分が何に怒り、何を願っているのかを理解することができます。それによって、傷を自分の力に変えることができるのです。

こういった傷は隠したり、強がったりしても、無くならないし力にもなりません。ただ受け入れることによって、自分を取り戻して力に換えていくことができます。

少しずつ。一歩ずつ。ひとつひとつの傷に出逢いながら。だから今の仕事、コーチングをしたりしてるんだなぁ、と気付いたのでした。


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