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映画『哀愁しんでれら』を観たけど私は感想が書けない

※こちらは映画の公開当初に書いたものの再掲です。
※序盤はネタバレしません。途中からちょっとする。

この映画を観た後、私の気持ちは妙に凪いでいた。

正直、少しだけ裏切られたような気分だった。「裏おとぎ話サスペンス」というドロドロしたキャッチコピーに、もっと衝撃的で悲劇的で、感情をかき乱されることになるかもしれないと覚悟して映画館に向かったからだ。

でも違った。私はこの映画の結末に納得して、納得させられてしまったのだ。面白がり方を間違えたんだろうか。そしてそんな自分に「あれ、おかしいぞ?」と疑問を抱き始めて、頭を抱えて今に至る。頭を抱えたまま、気付いたら2日が経過していた。

とりあえず、胸糞エンドが嫌いじゃない人は観てくれ。各自感じてくれ。頼む(お手上げ)。

しずる村上さんも言っていたけれど、何しろこの作品を観た後の感情を言葉にするのが難しい。難しいのに約1万字書いているのは冷静に考えて頭おかしい。

でも書かないと私の中で映画が終わらない気がするので書いてみようと思う。

誰が凶悪事件を起こすのか

これからちょっとややこしいことを言わせてほしい。

予告編は「なぜその女性は、社会を震撼させる凶悪事件を起こしたのか」というナレーションで始まる。

これは個人的な趣味なのだが、映画やドラマにおいて凶悪事件を起こす犯人がサイコパスだった、という結末はあまり好きじゃない。実はサイコパスという設定にしておけばキャラクターを通り越して何でもできちゃうから。飛び道具としては最強なのかもしれないけれど。あと、お金目当てで殺人を繰り返す悪人にもみんなが同情するような理由があって、みたいな描写もあんまり。悪人は最後まで悪人でいてくれって思う。

そういう訳で、この映画はそうじゃないといいなと思っていた。結局そのどちらでもなく、結末は確実に社会的には間違っていて胸糞悪くて最悪なのに不思議なくらいストンと腑に落ちてしまった。理由は何となく分かる。登場人物たちは全員たしかにちょっと変だけど、狂人ではなくて普通の人だったから。

劇中あちこちに違和感の種が散らばっているのだが、それを拾っていくとラストシーンに向かって全部が芽吹いて、蔓が伸びて絡まっていくような感覚。そしてその種は自分の中にもあるような気がする。映画の中の登場人物だから種が芽を出したんじゃなくて、誰の中でも育ってしまうような。そして薄ら寒いものを感じるのだ。

凶悪事件、自分は絶対に起こさないって言える?

この世でいちばん雑なあらすじ

「普通の女の子」である福浦小春(土屋太鳳)は数々の不幸に見舞われるが、やがて王子様のような男性・泉澤大悟(田中圭)と運命的に出会って結ばれ、彼の連れ子である娘のヒカリ(COCO)とともに家族となる。そのまま幸せに暮らすと思いきや、3人は少しずつボタンをかけ違えていき……

(いや雑)
(雑だけどネタバレしないとこんなもんじゃ、たぶん)

※この先はネタバレを気にせずに書きます。


映画の中にばら撒かれている種

種その1:「善き母親」の呪縛

これはもう大変分かりやすく小春も大悟も「善き母親」の像に縛られている。雁字搦め。ぐるぐる巻きで身動きひとつ取れない感じ。

小春は幼いころに母親に出て行かれたこと、大悟は学校でいじめられていたが母親が救ってくれなかったこと(母親は何もしなかった訳ではない、ここもボタンのかけ違いがあったのだろうと思う)や手をあげられたことがそれぞれトラウマになっている。劇中2回登場する「母親の努力によって子どもの将来が決まる」という言葉が小春をじわじわと追い詰めていくことになる。

人の心に棲んでいる「善」のイメージというのはものすごく強い。そこから外れて一気に「悪」へと転じてしまうのを皆恐れている。しかしそもそも理想の母親像なんてありもしない。母親だけじゃなく、父親も子供も、家族ってそういうものだろう。でも、母親と父親が揃っていて子供がいて、常に穏やかで笑顔で……というのが完成された家族だと思い込む。その完成された状態に対して足りないピースがあったとき、その欠落がどうしても気になってしまう。小春と大悟はその欠落を意識しすぎたのだと思う。

そういえば大悟の父親は一切登場しないのだが、もしかすると母子家庭だったのだろうか。大悟は開業医で金持ち(何しろ「外車に乗ったお医者様」である)だけど、実家は裕福ではなかったようだ。親子揃って音を立てるジュースの飲み方とか、決して育ちはよくないはず。大悟が「善き母親」にこだわり続けたのは「善き父親」を知らなかったからだろうか。欠けたものを持つ者同士、小春と大悟は共鳴するものがあったのかもしれない。

種その2:もしあのときに戻れたなら

劇中、2回夜明け前の踏切のシーンが登場する。あれが小春にとってのターニングポイントだ。あの場面を起点に小春の人生のベクトルが変化する。

あくまで私の解釈だが、1回目は「福浦小春」の死と母親としての「泉澤小春」の誕生、2回目は小春が抱いてきた価値観の死と新たな泉澤家の誕生(再構築)だ。映画を観ながらこの踏切の場面をやり直せたら小春の人生はもう少し違うものになったのではと思わずにいられない。

1回目のシーンで、酔いつぶれた大悟が踏切に横たわるのを見つけた小春は2、3歩後ずさって電車が近づいてくるのを見る。ここは小春の頭の中と実際の行動で乖離がある場面だが、実際には大悟を助けている。「このまま私が助けなかったらどうなるんだろう」という脳内の映像というところだ。後々大悟の「人が電車に轢かれて死ぬところを見てみたい」という欲求を抱くことは誰にでもあるという指摘に小春はどきりとする。

2回目はそれまでの小春が一度死んだのだとより強く実感するシーン。茫然自失といったようすで小春は自ら遮断機の降りた踏み切りに横たわる。今度は大悟が小春を助け出し、失くしたはずの結婚指輪を薬指に嵌める(ちなみに指輪の謎はパンフレット参照)。この指輪を嵌めるのは新しい家族の再構築が始まるのだという象徴だろう。小春は改めてここでヒカリの母親になった。小春のこれまでの価値観はここで一度死んで、くるりとひっくり返る。

ひっくり返るといえば、冒頭の見える世界が反転する演出が秀逸だった。地球のN極とS極だってある日突然逆転するのだから、個人の価値観や見え方など造作もないことだと思う。

種その3:泉澤大悟とヒカリの存在

このままだと村上さんばりの10000字、書いてしまいそうなので……どんどんいこう。

泉澤大悟、どう考えても変なやつ。どこかおかしい。だけど普通の人。

台詞の端々に大悟のちょっとおかしな感性は見てとれる。「学歴がすべて」とか「鹿の×××」とか30年分の裸の自画像とか、まあ、変だと思う。でも彼なりに家族を守るために必死なのは理解できるし、ヒカリに対しては親として愛情を注いでいる。例えその愛が他人が見れば歪なものでも、彼にとってはそれが正しい愛だ。

ヒカリに関しては大悟が「難しい子」と言っているように、周りを振り回す傾向にはあったのだろう。同級生の渉に構ってほしくて嘘をついたり、小春の裏切り(内緒話を大悟に話してしまったこと)に対してわがままを言って困らせようとしたり。よくある話だ。いい子でも悪い子でもないと思う。

泉澤家はインテリアも含めてちょっとズレていて違和感だらけではあるのだけれど、よくよく見てみると特別ではないのだと分かる。だからこそあのラストシーンに至るまでにぞっとするのだ。

種その4:「あと何ができるかな」

泉澤家が再構築されてから、小春と大悟は「あと何ができるかな」とたびたびつぶやく。ヒカリのためにできることはないだろうかと右往左往する。

この様子だけ見ていると、子供のために状況を打開しようと熱心に考えているただの親だ。「あと何ができるかな」とその瞬間の最良の選択を積み重ねてきた小春と大悟。しかし、彼らの選択は社会通念上、決して許されない行動にたどり着いた。

一面を見れば特別な存在ではない小春と大悟、それからヒカリが、家族として集まったときモンスターのような恐ろしい行動に出てしまう。

この胸糞悪いラストシーンがあるのでみんな観て!と大声で言いづらいのだが、この映画の恐ろしいところは「普通」と凶悪犯罪が地続きなところである。子を思う気持ちを重ねて重ねて、その先にあったのがあのラストシーンだ。

そうやって彼らの気持ちを追いかけていたから納得させられてしまったのだ。私だって小春と同じ選択をしなかったとは言い切れない。種は私のなかに撒かれている。

これは「現実」か「おとぎ話」か

この映画はものすごく現実的な部分とファンタジーのようなまさにおとぎ話の世界観とが絶妙なバランスで成り立っている。だって、小春が大悟に買ってもらうドレスと靴は一体どこに着ていくつもり?と思うし(伏線は回収されるけれど)、ダンスまで踊っちゃうんだもの。

あの田中圭がダンスですよ、皆さん(田中圭はダンスが踊れない)。

色彩や映像の明るさでストーリーの行く末を表すのもいかにもおとぎ話。それでいて台詞はリアルに溢れていて、ぐさりと刺さるものもある。

そういうバランスだから、おそらくラストシーンの見え方が人によってバラバラなのだ。私はなるほどなるほど、と納得してしまったけれど、あれは妄想だろうと言う人も、あんなのあり得ない!と言う人もいるはず。

そりゃあ評価もバラバラだろうなあ……監督、もしかしてとんでもない問題作を世に放ってしまったのでは?と勝手に心配している。ファンとしてはいろいろなところで議論されたらいいなと思う。

初めて舞台挨拶の現場に赴き舞い上がって撮影した1枚

以上!

どうしよう長くなりすぎた。

最後に、私が気に入った大悟(田中圭)の台詞を置いておこう。

「もうすぐ41」
「疲れてるんだけどなあ」

です。妖艶な雰囲気を醸す太鳳ちゃんと妖しく笑むケイタナカ、よかったですね……ああ、そういう話、書くべきでしたね……延々と増える字数…………。

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