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氷河、白夜…清冽な大自然の北欧 ノーベル賞や童話やおとぎ話、魅力いっぱい

 毎年秋になると、ノーベル賞の発表があり、ノーベルの生まれた12月10日に授賞式が行われる。この時期、しばしば北欧の旅を思い起こす。オーロラこそ見ていないが、白夜で知られ、フィヨルドや氷河など清冽な大自然の北欧は、印象深い地だ。朝日聞社に在籍していた1996年9月、初めての海外出張がノルウェーだった。それから約20年後の2015年6月、スウェーデンとデンマークも含め北欧3ヵ国を旅した。とりわけオスロ市立ムンク美術館やオスロ国立美術館にはいずれの旅でも訪れた。名画《叫び》との再会の思い出を軸に、童話やおとぎ話などメルヘンの世界の魅力を伝えたい。

01 ノルウェーへ初の海外出張(1992年9月)
ノルウェーへ初の海外出張(1996年9月、筆者は真ん中)

■ムンクの《叫び》を本拠地で鑑賞

 4半世紀前になったが、最初の旅から。残暑厳しい日本を離れ約14時間かけ、ノルウェーのオスロ空港に降り立った。到着後3時間経た午後9時半過ぎになっても空は明るかった。まぎれもなく白夜の国だ。時差は7時間で、日本では深夜のはずだが、一向に眠くならず、夜なのに昼のような街を散策した。深まる秋の気配で肌寒かった。8日間の日程でオスロとベルゲンなどを巡った。

02 上空から見たオスロ
上空から見たオスロ

 この旅は、ノルウェー外務省の招きだった。1994年にリレハンメルで冬季五輪が開かれたことから、1998年の長野大会に向け「ノルウェー王国芸術祭」を企画し、朝日新聞社の報道と企画の担当者らの研修を目的としていた。

 芸術祭は文化省ではなく、外務省が主催したのが特徴で、展覧会や演劇、コンサートなど多彩な文化を総合的に紹介するものだった。当時、エバ・ブッゲ広報文化情報局長は「ノルウェーのような小さな国にとって、文化は重要な外交政策の一つです。文化の評価は経済効果にも波及するのです。芸術祭を機に、日本人にノルウェーのことをよく知ってもらいたい」と強調していた。

 最初に向かったのが、オスロ市立ムンク美術館だ。市内東部の植物や地質学博物館などと隣接する広大な緑地にあり、モダンな外観だった。生誕百年を記念して開館し、油彩画、版画、水彩、素描など2万点を超す寄贈を受け所蔵している。

03-市立ムンク美術館2
オスロ市立ムンク美術館

 エドヴァルト・ムンク(1863-1944)は、81歳まで長生きし、膨大な作品を遺している。1993年に大阪の出光美術館(現在は閉鎖)のムンク展で、《叫び》や《不安》、《マドンナ》などの代表作を見ていた。人間の魂を揺さぶる画家だと思っていただけに、本拠地での鑑賞が楽しみだった。 現地での《叫び》は感動的だった。ムンクは日記の中で「陽が沈むとき、空が血のように赤く染まり、青黒いフィヨルドと町の上に血のような雲が垂れかかった。私は恐怖におののいて、立ちすくんだ。そして大きく果てしない叫びが自然をつんざくのを感じた」と記している。北欧特有の暗く寒く長い冬が作品に投影された情景だ。

05 叫び
ムンク《叫び》(1893年、オスロ市立ムンク美術館蔵)

 一方、ムンクは早くカメラを入手するなど進取の気性にも富んだ。案内の学芸員は「ムンクは自身の裸体も含め、写真をよく撮った。露出時間を長くしたり、反転させたり、写真に触発されて様々な解釈を絵で試みた。絵を描いたあとに同じ構図の写真を撮った例もある」と、興味深い説明をしていた。

04 学芸員
ムンクについて説明の オスロ市立ムンク美術館の学芸員

 同名の《叫び》はオスロ国立美術館にもあり、こちらでは《マドンナ》などの名作もじっくり鑑賞した。

06 叫び
ムンク《叫び》(1910年?、オスロ国立美術館蔵)
07 マドンナ
ムンク《マドンナ》(1894年、オスロ国立美術館蔵)
08 国立美術館
オスロ国立美術館

 ムンクは伝統破壊運動のたまり場となった「グラン・カフェ」にもよく顔を出し、哲学者や作家、他分野の芸術家らと交流している。その中に同世代の彫刻家、グスタフ・ヴィーゲラン(1869-1943)がいた。

 ムンクの作品に刺激を受けた翌日、美術館とは王宮を挟んで対極にある広大なヴィーゲラン公園を訪ねた。公園のことは調べていたが、一見に如かずで驚いた。菩提樹が植えられた遊歩道を進むと、人造湖があり、橋の欄干にはブロンズ像が立ち並んでいた。

09 ヴィーゲラン公園
ヴィーゲラン公園、橋の欄干にはブロンズ像
10 人間の一生の彫刻
人生における様々な場面を表現した彫刻

 その先には、人間の誕生から死までの人生における様々な場面を表現した彫刻があり、上に17メートルの塔《モノリッテン》がそびえ建っていた。この花崗岩の塔に刻まれた人体は、老若男女121体だそうだ。生涯の大半をかけて制作した公園全体には、200点以上の彫刻があり、壮大な生命の賛歌をうたいあげていた。

11 塔
17メートルの塔《モノリッテン》

 彼の作品は海外で唯一、札幌芸術の森に5点が展示され、以前に見学していた。その中で《木の枝をすべりぬける少女》は、精神的に不安定な時期の少女が、家庭から独立しようしながら躊躇している心の葛藤を、カゴのような木からすべり出そうとする姿として表現されている。若々しいエネルギーの中に漂う不安の表現は、ムンクの作品《思春期》を連想させるものだ。

■イプセンの「人形の家」、女権へ貢献

 9月のこの時期、オスロではイプセン・フェスティバルが催される。街角のいたるところにポスターや旗が見受けられた。私の泊ったホテルの斜め前が国立劇場で、夕刻から上演されていた「人形の家」(1879年)を観劇することができた。

 この「人形の家」によって、ヘンリク・イプセン(1828-1906)は近代劇の父とも呼ばれているのだ。小鳥のように愛され、平和の生活を送っている弁護士の妻ノラには秘密があった。夫が病気の時、父親の署名を偽造して借金をした。秘密を知った夫は社会的に葬られることを恐れ、ノラをののしる。事件は解決し、夫は再びノラの意を迎えようとするが、人形のように生きるより人間として生きたいと願うノラは三人の子供も捨てて家を出る。

 劇は当然ノルウェー語で演じられ、言葉は通じず、時折場内から笑い声が起こるのには閉口した。しかし本を読んでいただけに筋書きは分かった。個人の自由や、自己の確立という、人間的なテーマがイプセンの作品の魅力といっていいだろう。そこで人間の力強い意志や感情は、ドラマの強力な軸になる。イプセン作品を演出するには、役者の力量が求められる。本場で最高の演劇を見ることができ、その夜のワインは格別だった。

 ノルウェー外務省の方からこんなエピソードを聞いた。ノルウェー女権同盟の祝賀会に招かれたイプセンはスピーチでこう語ったそうだ。「私には、いつもわが国を進歩させ、人民により高い基準を与えるという宿題があります。これを成し遂げるには、二つの要素の協力が必要です」と。  

 その二つの要素とは何か。「修養」と「訓練」である。「自分をつくる」ことと、しっかり何かを「身につける」ことともいえよう。そして子どもたちを、この「修養」と「訓練」に導く存在こそ、「母親たち」であると、強調した。イプセンは、スピーチをこう結んだ。「人間の問題を解決するのは、女性たちです」「ありがとう!女権同盟に乾杯!」。

 ノルウェーといえば、男女共同参画の先進国として知られる。さすが「人形の家」の影響が大きい。要するにイプセンの功績は、女は家庭で家事をして家を守り、子どもを育てるという従来の女性像を破壊したことだ。

 イプセンは、8歳のとき家が破産し上級学校へ進めず薬剤師の徒弟となる。その間,パリの2月革命に影響を受け,古代ローマの革命家カティリナに取材した史劇を書く。これが彼の処女作である。その後貧窮の生活を送りながら創作技術を磨く。

 1864年に国外に出て、以後28年間もイタリアを中心に海外で過ごすことになる。その間、「ペール・ギュント」「皇帝とガリラヤ人」などの大作で名声をあげた。「ペール・ギュント」(1867年)は、ノルウェーの自立性に欠けた当時の国民性を皮肉った物語だった。このイプセンの初期の劇詩に曲をつけたのが国民音楽の基礎を築いたグリークだ。音楽が演奏された初演が大当たりで、19世紀のもっとも演劇的な作品の一つとして評価されている。

■ベルゲンでグリーグの名曲に酔う

 ノルウェー後半の旅は、12-13世紀に首都であったベルゲンに赴いた。オスロからの機内で見たフィヨルドの美しさは鮮烈だった。三角形の屋根がひしめくブリッゲンの街並みはかつてドイツのハンザ商人たちが活躍した商館が再現され世界遺産の町並みだ。ここはエドヴァルト・グリーグ(1843-1907)を生み、毎年国際音楽祭が開かれている。

12  ベルゲンの街並み
三角形の屋根がひしめくベルゲンのブリッゲンの街並み

 グリーグが22年間、生活していた家がそのまま博物館となり、小さいながらも立派な音楽ホールもある。入り江の方に下りていくと、作曲の時にこもった小屋があり、別の道の崖には夫妻が眠る墓があった。「君を愛す」という歌曲があるが、ソプラノ歌手だった奥さんのために作曲したことを聞いて納得した。

 音楽ホールでは私たち4人のためにピアノ演奏をしていただいた。正面がガラス張りになっていて、フィヨルドが一望できる椅子に座って至福の時を過ごした。おみやげに、地元オーケストラ演奏の「ペール・ギュント」のCDを買った。

13 グリーグ
グリーグの音楽ホールでピアノ演奏を拝聴

 グリーグはライプツィヒ音楽学校に学び、帰国して1862年春、故郷のベルゲンでピアニスト・作曲家としてのデビューを飾った。音楽教師として生計をたてていたが、1870年以降は政府の終身年金の資格を得て作曲と演奏活動にまい進したという。誠に芸術に手厚いお国柄だ。多くの名曲を残すが、民族音楽を芸術的なレべルに高めることに尽力した。

 翌日の夕刻には国立コンサートホールで1775年に創設のベルゲン・フィルハーモニ管弦楽団の演奏によるグリーグの「ピアノ協奏曲イ短調」(1868年)などを拝聴した。指揮者は世界的に有名なロシアのドミトリー・キタエンコだった。演奏終了後、指揮者を囲む打ち上げ宴に招待されたが、7カ国の人たちが深夜まで料理とワインを味わい、ベッドに横たわったのは午前2時前になった。

 ベルゲンでは、文化施設の視察以外に、フィヨルド観光を楽しんだ。小型のプライベート船をチャーターしていただき、峡谷美の絶景を満喫した。船から降りた後、USFアートセンターを訪ねた。イワシのかん詰め工場を改装し、若い芸術家のためにオールナイトの活動スペースとして開放していた。もちろん宿泊やアトリエなどの施設も完備している。カフェレストランがあり、異分野の芸術家たちが交流でき、多様な才能がお互いに啓発しあっていた。

14 フィヨルド
ベルゲンからフィヨルド観光のチャーター船

 モナ・E・ブローテル広報文化情報海外普及部長は「わが国は若い芸術家への助成など芸術教育に力を入れており、文化は大きな産業だという考え方が社会的に認知されています。『若くて実験的な国』であることを紹介したいのです」と自慢げに話していた。

 19世紀の同時期に、ムンクやヴィーゲラン、イプセン、グリークらの傑出した芸術家を生んだ背景は、その歴史にあった。ノルウェーは、1380年から1814年まで400年以上もデンマークの統治下にあった。国を建て直していこうとする気概が渦巻いていたのではないだろうか。現在、人口約540万人の小国だ。そのコンパクトさゆえ、文化政策を効果的に運用できるのかもしれない。しかし何より若い芸術家たちを育成しようとする熱意に感銘を受ける旅だった。

■北欧3ヵ国では、観光名所を駆け巡る

19 高台から見るメーラン湖と街並み
高台から見るメーラレン湖と街並み

 ノルウェーの旅に多くの紙数を割いてしまったが、旅行社による北欧3カ国の旅は、スウェーデンのストックホルムから始まった。水辺に面した美しい市庁舎には、ノーベル賞受賞者たちが参加する舞踏会の「黄金の間」があった。普段は見学できるそうだが、この時は市の催しがあり閉鎖されていて残念だった。文学賞だけは別の選定会場で見学した。市内には、スウェーデン王宮やリッダーホルム教会など見どころも多く、街歩きを楽しんだ。

15 スウェーデン市庁舎
水辺に面した美しい市庁舎
16 ノーベル文学賞
ノーベル文学賞選定会場
17 スウェーデン王宮外観
スウェーデン王宮外観
18 リッダーホルム教会
リッダーホルム教会

 ノルウェーのオスロには国際列車で乗り入れた。やはりこの旅でも《叫び》との再会が何よりの関心事だった。オスロ市立ムンク美術館や国立オスロ美術館を再訪した。《叫び》といえば、1994年に国立美術館から盗まれ、2ヵ月後に発見されている。ムンク美術館でも2004年8月に別の《叫び》が盗難に遭った。こちらも2年後に回収されていた。いずれの《叫び》も鑑賞できた。願わくば《叫び》が描かれと思われる場所にいってみたいという誘惑もあったが、フリータイムの時間制約もあり諦めた。3度目の旅まで持ち越した。

20 オスロ駅
オスロ駅

 市内の名所は再訪で懐かしめた。もちろん前回と別のハダンゲルフィヨルドを大型クルーズで堪能した。初めてのボイエ氷河には感激だった。山合の頂きから裾野にかけて巨大な「白亜の鎧」が覆っていた。「氷河は積雪と違ってブルーの筋が走っている」というガイダンスを眼前の光景で確認した。

21 ハダンゲルフィヨルド
ハダンゲルフィヨルドの風景
22 ボイエ氷河の前で
ボイエ氷河の前で記念撮影

 リレハンメル・ジャンプ台にも立ち寄り、一番高い所から下を見ると怖かった。あらためてジャンプ選手の勇気を感じ入った。

23 リレハンメル・ジャンプ台
リレハンメル・ジャンプ台

 ノルウェーには庶民の芸術建築ともいうべき古い木造教会があった。スターブ(支柱式)チャーチと呼ばれ、三角錘形の屋根が幾層にも重なり、ヘビのうろこのような「こけら板」で覆われた屋根の棟木の上にはリュウの頭が突き出ている。1300年代には千棟以上もあったといわれるが、現存するのは約30。当時、世界では石造の教会が中心だったが、木の扱いに巧みだった国民の心意気だったのかもしれない。民俗博物館の建物も、構造が巧みで、興味を引いた。

24 ロムのスターブ教会
ロムのスターブ教会
25 民俗博物館
民俗博物館

 デンマークのコペンハーゲンへは大型客船で入港した。船上からの夕陽の眺めは格別だった。クマの帽子をかぶった衛兵の交代式が見られるアマリエンボー宮殿や、広大な庭園に囲まれたローゼンボー宮殿は必見だ。「人魚姫」の像も定番コースだ。フリータイムは、おとぎと童話の国らしいチボリ公園で過ごした。1843年にオープンという歴史的な遊園地で、ウォルト・ディズニーも参考にしたという。

26 船上からの夕陽
ノルウェーからデンマークに向かう船上からの夕陽
27 アマリエンボー宮殿
アマリエンボー宮殿
28 クリスチャンボー宮殿
クリスチャンボー宮殿
29 コペンハーゲンの人魚姫
コペンハーゲンの人魚姫
30 チボリ公園
大人も子供も楽しめるチボリ公園

 イプセンやアンデルセンが育った白夜の北欧は、メルヘン的な魅力にあふれている。それでいてノーベル賞の授与(平和賞はノルウェー)をはじめ芸術・文化への理解や、高福祉の社会政策など、旅するだけでなく住んでみたくもなった。  


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