どうして僕たちは文章を書くのか

 よく昼間の月の夢をみる。

 昼間の月は小さな窓の先に浮かんでいる。
 窓は小さすぎてほとんど何も切り取ってはくれないのだけれど、決まって昼間の月だけはその窓枠の内に姿を現している。夢の中で見つめる月は、たいていの昼間の月がそうであるように、薄く、淡く、どこか儚げである。そんな頼りげのない球体が、唯一覗ける青空の大方を毎回埋めてしまっていることに対して、僕は素直に喜ぶべきなのだろうか。
 分からない。
 ただ、月は月である。月は一つしかない、例え昼の月であれ、夜の月であれ、美しさに優劣はないはずだ。
 月を眺めるのに飽きると、僕は一度深呼吸をする。そして、窓の外に広がっているであろう無限の世界について想像する。四角く切り取られた僅かな世界の一片が、僕を夢想の世界へと誘ってくれることを強く希求する。
 夢の中で想像するなんて、ちょっと不思議な話だけれども。とにかく景色を膨らませ、イメージを広げる。小さく折り畳まれた折り紙をゆっくりと開いていくみたいに。それは少しずつ僕の目の前に広がりを見せてゆく。
 背高く伸び切ったススキ。ゆらゆらと軽やかな匂いを運ぶ風。さびれた線路。うすい子猫の昼寝(何故だか分からないが子猫が透けて見えるのだ)。屋根の上に取り残されたバスケットボール。大抵はなんでもない、ありきたりな景色が浮かんでくる。愛しい人のことを考えるみたいに、自然で優しい想像が膨らんでいく。

 想像はとどまることを知らない。もし、あなたが想像のその先を信じるのなら、世界はさらに深化し色彩を帯びてゆく。ささやかなイメージは新たなストーリーを立ち上げるエンジンの役割を担うのだ。
 例えば『さびれた線路』。そのキーワードから世界を生み出すことが僕らにはできる。とても簡単に、僕らにはできる。
 自分の心に問いかけるだけだ。

 やってみよう。

『さびれた線路』を走る電車はススキを掻き分け乾いた軋みを小さな街に響かせる。その軋みをある者は遠い街へと運び、ある者はこの街へと持ち帰る。古びた井戸や、夕焼けに染まる背の高い灯台はそのことについてずっと昔から知っている。そのこととはつまり『人々がそれによって繋がっている』ということ。ずっとずっと昔から彼らは知っている。
 クリーム色の車体にオレンジ色の横線が三本。踏切がカランカランと注意をうながせば、昼寝をしていた子猫が片目を小さく開く。ちらり。うるさいな。もちろん子猫だってそれについて知っている。みんなある意味では物知りなのだ。

 ストーリーが自然と立ち上がってくる。肩の力を抜き、想像に身を任せれば、音楽のようにそれらはやってくる。
 誰にだって夢を見る資格がある。
 誰にだって世界のその先を想像する資格がある。
 夢は雨降りのように楕円の空間をなしている。
 可能性は果てしない。

 やがて、物語はさらに深い場所で語り出される。

 その世界であなたは一本のペンを持っている。

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