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純度100%の変態性(青春と変態/会田誠)

ロリコン、エログロな作風、昨年のセクハラ訴訟など、お騒がせアーティストのイメージが強い芸術家・会田誠。

私は正直なところ、彼の作風があまり好きではない。
芸術は常に何らかのメッセージを伝える使命を負うものだが、彼の作品、例えばレイプされている女性の表情からは、そういった強い想いを見出すことが出来ない。
唯一透けて見えるのは「描きたかったから描いた」という、子供じみたピュアな動機だけだ。
しかし年齢を重ねてもなお、その純度を保ったまま作品を発表し続けることは簡単なことではない。
気を衒ったのでも、マーケティングに基づいたものでもない、純度100%の変態性。
それこそが会田誠の魅力なのだろう。

そんな彼が初めて書いた小説が『青春と変態』だ。
「へぇ、あの人が小説書いてるんだ」という一抹の好奇心だけで手に取った。
結論からいうと、ここにもブレない変態性(タイトルからして既に)があり、そして意外なことに、その変態性の一部は私の共感を呼ぶものであった。
私はなぜ、変態性に共感し得たのだろうか。


1. 表現の湿度が低い

17歳の男子高校生が、スキー合宿に参加した際の日記形式で物語は進んでいく。彼の趣味は「トイレ覗き」。いうまでもなく合宿の最中にも、人目を忍んでトイレの個室にこもり覗きをはたらく。
直接的な描写が多く読むのを止めたくなる瞬間が度々あったが、それでも最後まで読めてしまったのは、主人公が自身を客観視することに長けており、心理描写が冷静かつライトだったからだ。
合宿の入浴の時間、男子数名が女子更衣室を覗こうとしたシーンを見て、例えば彼はこう書いている。

アメリカあたりの青春コメディー映画を前にテレビで見た。ハイスクールが舞台で、こんなふうに悪ガキが数人で女子更衣室を覗いたりする。数人、というところがポイントだ。けして僕のように一人では覗かない。一人だと、やっぱりマイナー変態映画になってしまう。複数ならメジャーな青春。この違いは何だろう。チャップリンの名言に似たようなのなかったっけ?

何を冷静に分析してんだとツッコみたくなるが、この湿度の低さが、覗きという犯罪行為の記録を読むに堪える物語に昇華しているのだと思う。


2. 純度の高い変態性

これは私小説か?と疑いたくなる、会田誠の作風に通じる変態性がこの主人公にも見られる。覗きをはたらく動機が、どこまでもピュアなのだ。

覗きはとても文化的だと思う。(略)それはむしろ、すばらしい本を一冊読み終えた時の、脳味噌から流れ出る痺れるような快感に近い。(略)だいたい学術とか芸術なんてものの動機には最初から不健康な変態性があって、長らく一般大衆の健康と対立してきたというのが僕の見方だ。

物語の中盤、主人公は誰もが羨む美人と親交を深めるが、彼女に対して性欲を感じないことに不安を覚える描写がある。
もはや同情したくなるほど、ピュアである。
対象が何であれ、純度の高い感情を保つことの難しさを大人はよく知っている。だからこそ、たとえそれが忌み嫌うべき感情であっても、どこか懐かしさのようなものを覚えるのかも知れない。


3. スクールカーストと閉塞感

この物語には、どの高校にもあるようなスクールカーストが存在し、田舎特有の閉塞感がうっすらと漂う。
主人公は自身をカースト下位だと認識したうえで、異常なまでにクールで達観したコメントを書き連ねている。

退学なんて考えたことはない。この退屈な街から抜けて東京の大学に行くまでの冬眠期間だと諦めて、じっとしていただけだ。17歳というたぶん人生で一番オイシイ時期を、冬眠で過ごすしかない不幸を感じないわけではないのだけど。

カースト上位の人間を妬むことなく、自身の変態性をよく理解しながらも自尊心を保ち、未来に目を向けて淡々と生きる主人公。
私自身も、中高生の頃は田舎の閉塞感に苛まれていた。彼のようなバランス感覚を持ち合わせていたらどれほど楽だったろうと、羨ましいような気持ちになった。


以上が、変態をテーマにしたこの小説に共感した理由だ。
私が中学生の頃、道徳の授業で「他人から見た自分の印象を知る」という謎の企画があった。
クラスメートが提出したクラス全員分の印象を教師がご丁寧にまとめ、後日、自分の分だけを渡されたのだが、私に向けられた言葉はクラスメートの人数に対して明らかに数が少なかった。
不思議に思い、前の席に座っていた女子にそれを見せると「私は『変わってる』って書いたけど、ないね」とあっさり言われた。
自分が変わってると思われていたことではなく、教師がその言葉を削除した現実に、少々傷ついたのを今でも覚えている。
あの教師がこの本を読んだら、何を思うのだろう。


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