08.14
仕事帰りにいつものように上司との取り止めのない話に花が咲く。
すごくすごく面白い内容だったので、ぜひ記録に残しておこうと思いたち、ぽちぽちとnoteに打ち込むことにした。
料理を待ち侘びるお客様のもとへ料理を運ぶことの"凄さ"
こう思ったことはないだろうか。
レストランやカフェに行き、まず数あるメニューの中から食べたい料理を注文する。
そして料理を待ち侘びるぼくの前に僕が頼んだ料理が当たり前のように運ばれてくる。
これって実はすごいことなんじゃないか。
と。
もうここまでで十分意味不明になっているのはお察しいただきたい。
まず、答えから述べる。
この条件であれば、この人が頼んだのはこの料理という前提条件があるためまず間違えない。
自分が頼んだ料理が注文通りにでてくることになんら驚きはない。
これも頼んだ時点でこの人にはこの人という番号があてがわれるため、あとは料理を運ぶ人が変わっても対応できる仕組みができている。
運ぶ料理に迷いがないから、こちらも驚きはない。
仮に注文した人と運ぶ人が異なったとしても起こりえる小さなミスを回避する凄技。これを聞かれると注文した人がごく自然と手を挙げてしまう。もしくは「はい、ぼくです。」と発してしまう。
これにより起こりうる"料理を頼んだ人に頼んだ料理が届かずに、別の人に料理が届く"という最悪の結果を回避できる。
この3点のルールが確立されていることにより、僕たちは頼んだ料理が当たり前のように目の前に並ぶという安心感を得ることができている。
この時点でももうすごいのだけれど、(何が?)
ぼくがすごいと感じたのはここからだ。
もし、前情報もなしに料理を待ち侘びる人のその人となりだけで
「この人はこの料理だな。」
と判断しているのだとしたら?
料理をテーブルまで運ぶまでにテーブル客の個性を完全に把握し、この人にはこの料理だろうなとあたりをつけ自信たっぷりに届けているんだとしたら?
す、すごくないか?
そう思ったぼくは、とりあえず
◯料理を運ぶスタッフ
◯オーダーをとるスタッフからの前情報の引継はなし(殺伐とした人間関係)
の2点でシュミレーションしてみることにした。
よければぜひ一緒に考えてみていただければ幸いです。
さてさてここからぼくはどうするか。
ぼくならこうする。
どの人もおそらくこの解答に落ち着くのではないかと思う。
ただ、待って欲しい。
あなたは考えただろうか?
そう、恐ろしいことに料理を持っていく際にそういった可能性が排除され、自分の主観が入ってしまうのだ。
こうだろうと予想し選択した答えが、予想通りにいく補償なんてどこにもない。
でも主観がどうしても入ってしまう。
その主観にとらわれずに料理を運ぶ人が的確に料理を運んでいるのだとしたら?
料理を提供するというごくわずかな時間にどこまでその人の人となりを理解している、いや、見抜いているのだろうか。
そう思うとただ単に料理を運ぶ人はただ単に料理を運ぶ人ではなくなる。
賢人?
賢者?
もう言葉に当てはめて考えるのはよそう。
うん、すごいのだ。
語彙力のなさに泣きそうになるけれど、これがいま考えうることのできるベストな表現だと思う。
主観に捉われずに生きている人がごく身近に潜んでいるのだとしたら、ぼくはその人の弟子になり教えを請いたい。
「人とはなんなのか?」
と。
お付き合いいただきありがとうございました。
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