悲しみたい、怒りたいという欲求。
大人が今の若い人の未来を憂いていると、わたしは悲しくなり、そして怒りのようなものが湧いてくるのを感じる事がある。
「これからの日本はどうなっていくんだ。」
「若い人たちはこの日本を背負っていけるのか。」
「今の若者は大丈夫なのか。」
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だまれこの野郎。
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と、思う時がある。大人がそんなんでどうする。若い人が心配事がないような、そんな国になってないのは俺たち大人の問題だ。若い人に背負ってもらえる国になってないのも、若人が大丈夫にみえないのも全部全部俺たち大人の問題だ。
と、そういうわたしこそ、若者の未来に希望を持てるような取り組みをしてきたのか。人の言葉に悲しくなったり怒ったりしてないで、お前こそ、俺こそ、わたしこそ、今大人としてどうなんだよ。と、甚だ疑問だ。
そんな気持ちのまま、阿字観していた。呼吸に集中することは以前よりスムーズにできるようになり、頭の中で自分との会話ができるくらい落ち着きと集中が深くなっていってる感覚がある。その日の阿字観は悲しみと怒りで涙まで出そうになっていた。何もしていない大人が未来を憂い、何もしていない大人が憂いを受け取り悲しく、そして怒って、自分にそれを問いかけ続けて涙が出そうになっていた。
そんな時、小さな気持ちがその奥にあるのに気がついた。それは、
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悲しめる、怒れるチャンスがきて
悲しんでるね。怒ってるね。
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そんな気持ちが浮上してきた。わたしは何かに悲しみたかったようだ。怒りたかったようだ。そのチャンスをどこかで伺っていたのだ、おそらく。どこかに悲しめる、怒れるキッカケはないか。チャンスはないか。心のどこかでその機会を待っていたようだ。
それに気がついた瞬間、悲しくも腹立たしさもスッとしぼんでいった。
悲しみたい、怒りたい、という自分の欲求がある事に気がついたらそれはもう悲しみでもなく、怒りでもなく、感情が成せる現象だった。それを言った人へ向けられそうになった悲しみも怒りも、自分の感情が欲求したものとしておさまった。
はてさて。これが真実なのか、本音なのか、真理なのか心理なのか、さておき。こんな風に静けさの中に自分の激しい部分がおさまるだなんて。おもしろいなぁ。
いぜん、友人の子供に対して強い怒りを感じ、一瞬にして怒鳴り声をあげそうになったところをわずかに残った理性が発動し、爆発しそうな怒りをとどめたことがあった。わたしの中でははじめての事だった。今まで爆発的な怒りのような感情はその瞬間に爆発させていたから。爆発をとどめた瞬間、体に強い衝撃のようなものを感じて頭がクラッとして気が遠くなりかけた。ボクサーがK.Oされる瞬間のような感じだったと思う。(ボクサーじゃないから知らんけど。)
怒りをとどめると、クラッとするのは体験したことがあったけど、怒りの源泉に自分が怒りたいという欲求がある。という事に気が付き、認識すればそれはおさまるところへおさまっていくようだ。
こうやって自分の感情の気がつかなった事に触れることができるキッカケになった阿字観瞑想はわたしにとってとても良い経験となっている。何度も思い返すけど、この夏、高野山に行くことができて本当によかったなぁ。
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