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オットセイと白い薔薇
蒸し暑さに首を焼かれたまらなく目覚めると早朝の4時を少し回ったところだ。冴子はベッドの上でしばらく体育すわりの姿勢をとり、となりで寝ている男を観察した。男はベースが筋肉質で出来ているがところどころに余分の脂肪が蓄積し始めている。尻肉だけはなぜかそげている。顎がゆるみ、髭は黒いというよりは蒼い印象が強い。
男をよくよく眺めた結果、冴子はそれが「あまり美しいとはいえない」ことに気がついた。
朝食を作った。豆腐の味噌汁には大根を加える。卵を半熟に焼き、プチトマトとレタスを添え、食パンを焼いた。一連の作業をほぼ無思考に終えたところで男が起きてきた。不機嫌そうだ。暑いからだろう。
いっしょに朝食をとる。やはり「この男はそんなに美しくはない」。
男はあまりものを言わず、おとなしく冴子の目の前で食パンをかじっている。動物に例えるならば「ウォンバットに似ている」。姑息そうな小さな眼が似ている。
冴子がウォンバットを見たのは小学生の息子といっしょに動物園を歩いたときだ。夜行性だというウォンバットがなぜか住処から姿をあらわした。冴子は息子に向かって大げさに「ウォンバットだって、ほら見てごらん」などと映画のワンシーンに出てきそうな台詞を口にした。小学生の息子はなにも言わなかった。眠そうな目でウォンバットを眺めていた。
夫に不満があるわけではない。
息子がかわいくないわけではない。
どうしてあの暮らしから逃げたのか、ときおり冴子はぼんやり過去をまさぐる。
アパートの天井の模様が怖かった。
朝起きると部屋じゅうが固まったみたいに濃厚で苦しかった。
夏はエアコンの音を聞き、
冬は冷蔵庫が鳴る音を聞いた。
夫はしだいにオットセイに似てきた。
見知らぬ男に身を任せた。たいした理由はない。誘われたから、それだけだ。
そんなに美しくはない男が部屋から出ていくと、冴子は窓を開けて空気を入れ替えた。掃除機をかけ、食器を洗い、洗濯機を回した。むかし見たドラマで家事に取り掛かるとき、かならず音楽をかける女がいた、でも水道の音、掃除機の音は音楽を聞こえなくする。なのになぜ音楽をかけるのだろう?そんなことを考えた。ほかにもっと考えたほうがいいことがあるような気もした。
でも「もっと考えたほうがいいこと」はいつも遠くにある。
もうじき貯金がつきる。働く場所が見つからない。
コンビニも郵便局も冴子を雇ってはくれなかった。郵便局の面接のひとは冴子をめずらしい生き物でも見るように眺めていた。わたしは珍しい生き物なのかもしれない。そのうち脱皮するか、あるいは冬眠するかのどちらかだわ、自分の考えはちっとも面白くはない。
夫に電話をかけてみた。
「もう家賃が払えない」
「戻ってきたいの?」
「行くところがないから」
「男はどうしたの?」
「知らない。連絡がつかなくなった」
オットセイに似た夫と小学生の息子が暮らす狭いアパートに向かう坂道の途中で冴子は花屋に寄った。白い薔薇が欲しかった。あの部屋には冴子が買ったガラスの花瓶がある。白い薔薇を飾り、それからカーテンを洗おう。
坂道を登り、少し下がったところに息子がいた。
「帰ってくるな」
小さなからだを震わせ息子は冴子に怒鳴った。そういえば、冴子は思い出す。この子はなぜだかとても優秀だった。勉強も運動もなんでもできるし友だちも多い。
「かあさん、他に行くところがないの」
無感動に口にした。それは事実であり、なぜかそれを口にすることは「当然の権利」であるかのように思えた。
オットセイに似た夫は冴子を責めはしない。ただ「ここにいなさい」といった。「ここにいてもいいよ」ではなく「ここにいなさい」だった。
白い薔薇をテーブルに飾り、うすいベージュのカーテンを洗濯機で洗った。息子は黙って机に向かい宿題のようなことをしている。
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