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神風に吹かれて 

 マーガレット・ミッチェルによる「風と共に去りぬ」。南北戦争最中のアメリカ南部を背景に男女の愛憎と魂の自立を描いた長編だ。と書くとなんかカッコいいが、高校生のころに何度か読んだきりで内容はあまり覚えていない。映画は見た。昭和のテレビは夜中によく古い映画を見せてくれた。風と共に去りぬ、大脱走、荒野の7人、シェーン。ほとんどはアメリカ映画だったが、時々はアメリカではない国で撮られた映画もあった。
 禁じられた遊び。
 穢れなき悪戯。
 眼には眼を。
 眼には眼を。恐ろしい映画だ。砂漠に打ち捨てられた男、絶対に完全に見捨てられた男。すっかりイスラム圏のどこかの国の映画だと思っていたが今調べたら仏伊の映画だった。ハムラビ法典は恐ろしい。いや、聖書もとてつもなく恐ろしい書物だ。それをベストセラーにしてしまった人間はよほどお人よしか、神以上に恐ろしいのどちらかだろう。

 話がそれた。
 わたしはさほどボブ・ディランを知らない。いや、ほとんど知らない。だが「風に吹かれて」はさすがに知っている。
 村上春樹氏のデビュー作、タイトルは「風の唄を聴け」なんどか読んだ。
 
 何が言いたいかというと、文学作品にはよく「風」なる言葉が登場する、これを言いたい。
 昨日は日系人強制収容所をぼんやり考えそれをここに書いた。その前はデンマークの学者やアポリネール、ユニコーンや河童を連想しそれをここに書いた。毎日、何かを考え連想し、そして私は何も生産しない。自分は現実社会においてまったくの無生産者である。と、それはまったくどうでもいい話だ。

 「風」について考える。私たちの感受性は「風」という言葉に対しどのような反応を見せているだろう?あるいは「風」という言葉をどのように遊んでいるだろう?

 広大な、漠とした大地を吹きつける風をイメージした。つまり頭に浮かべた。歴史が蓄えてきたあらゆる創造物をなぎ倒すような風だ。このイメージは、「風」には人間の運命を有無を言わせず強制的に破壊し、結果、まったくの別物へと変換させる力が備わっている、との大げさな感想を私にもたらした。

 日本人は「神風」を知っている。あの戦で、多くの日本人が「神風」を信じた。あるいは軍事的都合により信じ込まされた、結果、多くの若く逞しい愛国青年たちがゼロ戦に乗り、果てた。たった80年前の話だ。
 昔、特攻隊員を描いたドラマがあった。木村拓哉氏扮する特攻隊員がぺらぺらの石鹸を惜しんで使っていたシーンを強く覚えている。

 「風」に私はステキなイメージも持っている。もちろんだ。
風はわたしたちに「自由」をもたらす。
 権力からの自由。
 歴史からの自由。
 宇宙からの自由。
 言葉からの自由。
 神は言葉だ。忘れちゃいけない。
 私たち自身からの自由。
風はわたしたちに無限の自由を与えてくれる。
どのような権威も奇跡でさえも、わたしたちの精神の自由を見えない鎖で縛ったりはできない。誰にも自在にかけめぐる心の衝動を留めることなど出来はしない。

 風は時間の象徴でもある。T.S Eliot という詩人がいる。実は名前しか知らないのでいろいろ調べたらステキな言葉に出会った。
「My life is light, waiting for the death wind」
 the death wind 「死の風」は、人間の宿命からは誰一人逃れられないと主張する。我々は常に最後の瞬間へと導かれている、風に背中を押されるように。

 偉大な詩人はこうも書く。

 あの音はなんだ?
 ドアの下で風が鳴っているのだよ。
 なら、今の音は何だ?
 風は何を騒いでいる?
 無。
 さらなる無。

 原詩を適当に訳した。英詩に詳しい方がいたら苦笑されることだろう。まあいい。詩人は「風」を無の象徴として採用した、としておく。

 そろそろ眠い。今日は2時間卓球をしたので、相当くたびれている。

 時は風のように過ぎ去る。
 これはわたしの言葉だ。引用ではない。ゆえに凡庸は否めない。

 

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