ガイウス・マリウスとポピュリズム
※トップ画像は「Mario Vinictore dei Cimbri」Saverio Altamura(1863年)Wikipediaより
※引用文のうち、()内は記事編者の補足。
ガイウス・マリウス。グラックス兄弟の死後、混乱する共和政末期のローマに颯爽と登場し、ユリウス・カエサルの義理の叔父としても知られる人物であり、※1.ユグルタ戦争や※2.キンブリ・テウトニ戦争における華々しい勝利によって軍人としての卓越した手腕を発揮する一方で政治家としての手腕には欠け、晩年はスッラとの内戦で恐怖政治を敷いて多くの血を流した人物でもある。マリウスの政治手法は現代で言う「ポピュリズム」にも通じると指摘されるが、マリウスとその周囲の活動からはポピュリズムに潜む問題点や危険性も見えてくるように思える。この記事では、政治家としてのマリウスに焦点を当てる事で、ポピュリズムに潜む危険性と問題点を考えていきたい。マリウスに関する概要は以下のとおりである。
1.対立構造の強調
マリウスが活躍した時代のローマは共和政末期のいわゆる「内乱の一世紀」よばれる時代であり、グラックス兄弟死後の混乱や対外戦争における苦戦が続く混迷の時代であった。
マリウス台頭の契機はローマとヌミディア王ユグルタとの間で行われたいわゆる「ユグルタ戦争」であり、この戦争でローマ軍は苦戦を強いられたが、その要因が※6.元老院で主導的な役割を果たしていた※7.「ノビレス」と呼ばれる階層の腐敗、堕落にあるとされ、彼らがユグルタに買収され、稚拙な戦争指揮を行ったがためにローマは苦境に立たされている、そうした風潮がローマ市民の間で高まっていた。
ヌミディアに派遣されていた※8.「新人」の高級将校であったマリウスはその風潮を感じ取ってそれを殊更に強調し、自身の上官でありノビレスであったメテルスが無能であるために戦争が長引いていると※9.民会で訴えて支持を集め、新人では到達困難だった執政官に就任している。
執政官就任後はメテルスを含むノビレス全体への批判を強め、新人である自身とノビレスの違いを殊更強調するようになった。
父祖の威光を笠に着る無能なノビレスではなく、実力でのし上がった新人である自分こそが戦争を指揮するに相応しいとして市民達にノビレスという「敵」の存在を強調し、新人である自身をそれに対抗する勢力の旗頭と位置付けるやり方は、まさにポピュリズム的手法と言えるだろう。
2.誤情報の利用
ノビレス批判を繰り広げたマリウスであったが、一方で「対抗勢力」たるノビレスの威信を貶める事にも腐心していた。
ウァガという町がユグルタに攻め落とされた際、守備隊の指揮官であったトゥルピリウスは敵に内通したとの嫌疑をかけられて裁判となった。この裁判でマリウスはトゥルピリウスを厳しく追及し、さらにトゥルピリウスが有罪であるとの空気を作り上げる事で死刑に追い込んだ。トゥルピリウスはメテルスの※10.クリエンテスであり、マリウスはメテルスにトゥルピリウスを処刑させる事によってその立場を貶めたのである。
しかし、後にこの訴因は虚偽である事が判明し、トゥルピリウスはいわば冤罪によって処刑された事になる。しかし、マリウスはこの事実が判明した後も以下のように振舞ったとされる。
マリウスにとってはメテルスの顔に泥を塗る事さえできればそれでよく、自身の利となれば情報が真実か否かは問題ではないという姿勢を露骨に示したのである。後にマリウスが手を組む事になるサトゥルニヌスは亡きティベリウス・グラックスの遺児を騙る偽者を※11.護民官に担ぎ出し、マリウスはこれに反対したものの民衆の支持によって護民官への当選を阻止する事が出来ず、皮肉にも自身と同じ姿勢をさらに露骨な形で示したサトゥルニヌスによって立場を悪化させる事となる。
現代においてもSNS等を通したフェイクニュースが問題になっているが、マリウスが誤った情報を利用したり逆にそれを抑える事が出来なかった事は、ポピュリズムとフェイクニュースの関係を考える上で重要である。
3.民衆扇動と暴力
執政官となり、軍事的な成功によって不動の地位を確立したマリウスではあったが、ノビレスを敵に回したために元老院内での支持を得る事が出来ず政治的にき詰まり、その打開策として護民官であったサトゥルニヌスと手を組んだ。サトゥルニヌスは非常に過激で扇動的な人物で、歴史家のテオドール・モムゼンはその人柄を以下のように評している。
サトゥルニヌスは前述の偽グラックス擁立等によって民衆を扇動しつつ自身の政策を推進するために脅迫や暴力を用い、ついには政敵の殺害にまで及びんだ。事態を重く見た元老院はサトゥルニヌス一派の鎮圧を決定し、マリウスも盟友を切り捨てる形でこれに同意して、サトゥルニヌスは鎮圧時の混乱で命を落とした。サトゥルニヌスを切り捨てた事で民衆の支持を失い、事実上の失脚に追い込まれたマリウスだったが、これで終わりではなかった。雌伏の時を過ごしたマリウスは、今度はスルピキウスという護民官と手を組んで再起を図ったが、サトゥルニヌスに輪をかけて過激だったスルピキウスは民会で※13.ミトリダテス戦争の指揮権を執政官であったスッラからマリウスへと強引に変更する一方、暴徒を扇動して決定を不服とするスッラを襲わせ、もう一人の執政官を罷免してその息子(スッラの娘婿)を殺害するという暴挙に出たのであった。公職の最高位にあるはずの執政官が罷免され、その親族が殺された事に、ローマ内における民衆扇動による暴力性は頂点を極めようとしていた。
その後スッラは麾下の軍団を率いてローマ市へ侵攻するという前代未聞の行動に打って出る事となり、以後、マリウスの死を挟んでスッラが勝利するまでの間、ローマは苛烈な内乱に見舞われる事となる。
4.ポピュリズムに潜む危険
軍事的勝利によりローマを救ったマリウスだったが、同時に政治的手腕の欠如によってローマを大規模な内乱へと導いたとも言え、その中にポピュリズの危険性を見出す事が出来る。その問題点は以下の3点に集約できる。
①対立構造の強調
②誤情報の利用
③大衆扇動と過激な行動
まず①については、大衆の支持を得るために分かりやすい「敵の存在を強調する」事は一方で対立を煽り、②は①を補強し、それによって大衆が過激な方向へと誘導され、①と②を基盤として③によって暴力行為が正当化される危険がある。
民主主義の根幹は「話し合い」にあり、暴力に頼らず穏便に問題を解決していく事が重要であり、ポピュリズムが悪用されれば大衆の支持を背景として暴力を伴った過激な行動が起こりかねず、民主主義の根幹を揺るがしかねないのである。
共和政ローマは近代的な民主主義国家ではなくエリートたる元老院議員に主導された寡頭政国家であり、近代民主主義国家にその例を当てはめるのは必ずしも適切とは言えない。とはいえ、マリウスを通して見た古代ローマの政治情勢からポピュリズムの危険性を学ぶことは全くの無益とも言えないはずである。膨大な情報が飛び交うネット社会の現代だからこそ、情報を正しく取捨選別し、安易に他人の考えに流されない事が重要である。
ご拝読ありがとうございました。
5.注釈
※1.ユグルタ戦争・・・紀元前112年にヌミディア王ユグルタが在地のローマ人を多数虐殺した事により起こった戦争。
※2.キンブリ・テウトニ戦争・・・キンブリ族やテウトニ族等の異民族が北方からイタリア半島への侵入を試みて起こった戦争。
※3.マリウスの兵制改革・・・それまで自弁だった兵士の武器を支給制に切り替える等の改革。軍が有力者の私兵となる端緒ともされる。
※4.執政官(コンスル)・・・共和政ローマにおける最高官職。通常は1年任期で2人選出される。
※5.ルキウス・コルネリウス・スッラ(紀元前138年ー紀元前78年)・・・マリウス配下の将校として頭角を現し、内乱に勝利して独裁者となり、恐怖政治によってローマを支配した。
※6.元老院(セナトゥス)・・・ローマにおける事実上の最高機関。300人(後に増加)の議員から成り、彼らが政治・軍事を主導した。
※7.ノビレス・・・執政官就任者を輩出した名門家系の出身者で、その威光により元老院内で大きな力を持っていた。
※8.新人(ノウス・ホモ)・・・元老院議員を輩出した事の無い家系の出身者。元老院議員としての出世には多くの困難が伴った。
※9.民会(コミティア)・・・ローマにおいて公職者の選出等を投票で決定す市民集会。
※10.クリエンテス・・・有力者の庇護民。ローマの社会ではパトロネジ(親分)とクリエンテス(子分)間のネットワークが非常に重要であった。
※11.護民官・・・元老院の決定への拒否権等の強大な権限を持った役職。グラックス兄弟もこの役職に就いて改革を試みた。
※12.民衆派(ポプラレス)・・・民会を活動基盤とする扇動的な政治家の総称。元老院を基盤とする閥族派(オプティマテス)と対立した。
※13.ミトリダテス戦争・・・紀元前88年にポントス王ミトリダテス6世が小アジア(現在のトルコ)のローマ勢力圏に侵攻した事で起こった戦争。
6.参考文献
・プルタルコス(柳沼重剛訳)『英雄伝3』(西洋古典叢書)
・サッルスティウス(栗田伸子訳)『ユグルタ戦争 カティリーナの陰謀』(岩波文庫)
・砂田徹『共和政ローマの内乱とイタリア統合 退役兵植民への地方都市の対応』(北海道大学出版会)
・テオドール・モムゼン『ローマの歴史』(名古屋大学出版会)