「喪服を準備しておいて」と母からLINEがきた

何となく頭の中にあるもやもやを着地点も決めずに書き留めたいと思い書き始めました。なので(いつにも増して)あまり面白くないかもしれません、。

ただも~しかしたらガン患者の親族を持つ方へガンの進行がどうなっていくかなどの参考になるかもしれない、という思いのもと無責任にキーボードを叩いていこうかと思います。
強い主張も何か説教をしたいという欲はまったくないので、淡々と今頭の中にある記憶と考えをまとめていきます。

便秘かと思ったらガンだった

なんと間抜けなことでしょう。父は3年前、令和が始まって間もないころにガンが見つかりました。

「見つかりました」というとどこか早期発見のようなニュアンスも含んだ表現にも感じますが、どっこい父の場合は大腸をガン細胞が塞いで便秘と勘違いしているくらいのもので超ド級の(という表現が正しいのかはわかりませんが)ステージ4でした。

地元の大学病院での手術のお陰で長時間に及ぶ手術の甲斐もあって最も主要な大腸のガンは摘出できたものの腹膜播種(ふくまくはしゅ:お腹を覆う膜のような臓器にガンが転移している状態、ここにガンが見つかるとあらゆる臓器へどんどん転移していくので完治は困難)が見つかり、精密な検査をすると肺などへの細かな転移も見つかりました。

そこから今なお続く長い闘病生活の始まりでした。


父と話すことがない

頑固で単純な父は当初はYouTubeの情報を頼りに抗がん剤は絶対やらない、と頑なに断っていたのですが、父方の兄弟の説得やお医者さんからの「抗がん剤をしない場合は半年も生きられないかもしれない」という言葉もあり、しぶしぶ抗がん剤を服用するようになりました。

抗がん剤を服用するとなると、髪は抜け落ちて身体がどんどんやせ細って変わり果てた姿になってしまうイメージを持っていたので、関西にいる自分は実家の宮城に帰省したときは少しでも父の姿を目に焼き付けようと、一緒にいる時間を増やしたり写真をいっぱい撮ったりしました。

思えば、父との思い出というものが自分の中にあまり記録されていないことに気づきました。父と共有した時間が少ない分話せる話があまりない。

もちろん働いて一家を支えてくれていた父でした。母方の祖父から受け継いだ田舎の町工場では経営者として、海外の拠点との行き来を頻繁にしていました。

とは言えお世辞にも経営センスがあったとは言えず、拠点拡大の失敗、新規事業の頓挫、無能な人材の重用などなど、、色んなやらかしを続けて祖父の残した会社のキャッシュもキレイに使い切ってしまうような父でした。

それはさておきとしてそんなこんなで、(他の多くの家庭が恐らくそうであるように)学校行事も日々の生活も母と一緒でした。

そんな生活が続いたので、家族と一緒に行動(食事や旅行)をするときの一員としての父の印象はあれど、父と個人的に深く繋がり、共有した思い出というものがどうも乏しいことに気づきました。

まあそんな感じで馴れないなりにも頑張って父に寄り添ってみたのですが、ところがどっこい、案外抗がん剤をやっても髪の毛が抜けたり急激に体重が落ちたりという変化はありませんでした。

抗がん剤も種類や人との相性があるようで、父が最初に打った抗がん剤は頭髪への影響はなく、その後2年ほどは白髪は増えつつも思ったほどの変化はありませんでした。

焦って父との時間を頑張って作ろうとしていたのが少しバカバカしくなるほど、父は変わらず酒を飲み、アホな間違いを起こし、嫌韓嫌中の右翼系YouTubeを見て大陸諸国に悪態をついて寝ていました。


父との2人きりの大阪旅行

とは言え父は徐々に弱っていきました。ガンの進行なのか抗がん剤の影響なのか収まらない飲酒量なのか面倒くさがりの運動不足からなのか、とにかくそれらの要因が上手に相乗効果をもたらし、体力が徐々に落ちてきていました。

そしてついに闘病生活も2年を過ぎた昨年夏ころには、当初使っていた抗がん剤が効かなくなってきてしまい、別の抗がん剤へと切り替えたタイミングでようやく頭髪への影響が出始め、数ヶ月の間に髪の毛はすっかりなくなってしまいました。

そのような目に見える変化が現れると改めて父が重病人であることを再認識し、まだ足がかろうじて動くうちに以前から来たがっていた自分が住む大阪へ招待することにしました。2021年の、少し肌寒くなってきた11月でした。

自分は有給を取って2泊3日、付きっきりで父の要望に答え続ける大阪旅行を敢行しました。鬼のいなくなった実家の晩酌用に母が好きな黒竜の貴醸酒をこっそり実家へ送りました。

父へは仙台から伊丹空港、そこから梅田までの道順をLINEで伝え、梅田のホテルで待ち合わせました。本当はPeachで関空まで来てもらうほうが安いのですが、父の身体を考えるとコストよりも伊丹空港のアクセス性の恩恵は大きいものでした。

そこで父とホテルのラウンジで食事をし、父の要望をヒヤリングして旅行の行程を組んで寝ました。ヒヤリングした、とは言っても父としては「何がしたい」というものが特にないらしく、こちらが色々提案をして父がその中から決める、ということをやりました。

そういうやりとりが自分にとっては新鮮で、30年以上の付き合いである実父と新しい関係性が生まれた気がしました。

父はかねてから「大阪のうどんが食べたい」と言っていたので、なんばのうどんの名店「千とせ」に行きました。

とは言え自分もまったくこの店の知識がなく、何となく開店時間ちょっと過ぎくらいに着くように向かったところすでに店先には長蛇の列ができていました。

寒がりでせっかちな父が大阪の寒空の下で行列に並ぶことなど不可能と考えていたため、「別の店にしよう」と促したのですが「いや、並ぶ」というので並ぶことにしました。

40~50分くらい並んで、ようやく店内にたどり着きました。この間、あの愚痴っぽい父がまったく不平不満を漏らさず、自分の足でしっかりと立ってうどんの行列に並んでいたことが本当に印象的でした。

そこで父は肉うどん、自分は肉吸いを頼みました。父は半分程度残し、自分が残りも食べました。

その後父は「なんばグランド花月」に行きたいと言い出しました。

父がお笑いに興味があるなんてことを全く知らなかったのですが、父が行きたいと言うならと思い初めてグランド花月に行きました。

休日のグランド花月はかなりの人だかりでしたが、なんとか直近の公演のチケットが取れたため、近くの居酒屋で少し時間を潰して入りました。

これもガンの影響なのかはまったくわからないのですが、その時だいぶ耳が遠くなっていた父には話している内容がよく聞き取れなかったそうなのですが、オール阪神巨人やザ・ぼんちなど、往年のスターたちの生漫才を見ることができていたく感動したようでした。

その後も道頓堀をブラブラと歩き、テレビとかでしか見たことなかった大阪の風景を間近で見ることができたことに子供のように興奮していました。

家の中すら歩くのを嫌がりだいぶ体力の落ちていた父でしたが、大阪のなんばを1時間以上楽しそうに歩き続けていた父の姿を見て本当に大阪に連れてきて良かったと思いました。


母から「そろそろ喪服の準備を」とLINEが来る

とは言え父はどんどん衰えていきました。

効き目がなくなってしまい種類を変えた2つめ、3つめの抗がん剤もまた効き目がなくなってきてしまいましたが、体力的にも抗がん剤の量を増やすということもできず、かと言って新たに効果が見込める抗がん剤もなくなっていしまい、結果的に最初に受けた抗がん剤を少量打つ程度になりました。

正直言えば父の容態を見る限りもう「終末医療」や「緩和ケア」と言われるような「病気を治すのではなく苦痛を軽減する(なるべく苦しみの少ないかたちで最期を向かえさせる)」段階ではあるものの、父の強い希望から抗がん剤だけは続けたいとのことで、医師の判断のもとに(恐らく申し訳程度に)抗がん剤を打つような状態になりました。
ガン発覚当初にYouTubeの情報を鵜呑みにして抗がん剤を頑なに断っていたのが嘘のような手のひら返しに少し笑ってしまいました。

だいたいその時期がきたのが今年の春ごろ、5月生まれの自分と父の誕生日の時期でした。

その頃になると自分もほぼ毎月実家へ帰るようになっており、5月はちょうど自分の誕生日にも帰省をしていました。

すると父が「昼にそばを食べに行かないか」と言ってきました。

父からの誘いとなれば断る理由もないため、二人でそばを食べに行くことにしました。

父が連れて行ってくれたのはとても誕生日の人が落ち着いて食べるような店ではなく、仙台のオフィス街の一角にある立ち食いそば屋でした。

その日は平日だったのもあり(自分は有給を取っていた)昼のそば屋はサラリーマンでごった返していました。

山形県の郷土料理というそのそば屋の「山形冷やし肉そば」は、冷たく色の濃いやや太めに縮れているそばが、冷たく鰹と鶏の出汁がしっかりと効いた汁に浸かって、上には歯ごたえのある蒸した親鳥の肉が乗っていました。

縮れたそばにガツンとくる出汁が絡まり、とどめの噛み切れないほど硬い親鳥の食感のアクセントが絶妙な山形そばの美味しさに本当に感動しました。父はそばは7割くらい残し、ちゃっかり熱燗を頼んでいたので帰りは運転手を交代して自分が運転して帰りました。

なんだかんだ言ってもまだ元気に酒を飲む父の様子に安心しながら5月の帰省を終えたのですが、きっと恐らくこれが最後の父と二人きりの外食となることでしょう。

大阪へ帰ってほどなくして、母から「そろそろ喪服の準備を」とLINEが来ました。


父の急激な変化と「あと数ヶ月」の言葉

抗がん剤を変えてからの父は、これまでの数年の衰えをほんの数週間で更新していくようなスピードでどんどん身体がその時に向かって進んでいくようにも見えました。

最初の明確な兆候はお腹に膿のような水が貯まる「腹水」が見られ始めたこと。それにより食が細くなって痩せこけた父の身体には不釣り合いなくらいお腹が膨らんでしまいました。

自分は幼かったため記憶になかったのですが、父方の祖父の死の直前がまさにこうだったそうで、腹水がたまり始めた後は数週間としないうちに祖父はこの世を去りました。

医者の見解も(はっきりとは言わないものの)やはり腹水が溜まり始めたら、その時がもう近いということは確かなようで、容態の悪化もありそれまで2週間おきに行っていた抗がん剤も1ヶ月、1ヶ月半と間隔がのびていきました。

こういった事実からも、母も兄も「父が新年を迎えることはないだろう」という覚悟を持っているようでした。

1ヶ月ごとに帰省をしている自分の目からも父の衰えは明白で、6月、7月、8月とどんどん父の身体がしぼんでいき、ベッドで過ごす時間が増えていきました。

食べる量は1日のうちで普通の人が食べる1食分のさらに1/3程度、その他の栄養は医師から処方された水に溶かす栄養剤で強制的に栄養をドーピングされるような生活をしていました。
しかし、もう父にはその栄養剤すらも必要な量を飲むことはできなくなっていました。

そして、抗がん剤のための通院もまともにできなくなり、先月(8月)の帰省のときには病院へ行っては点滴だけ受けて栄養を補充して帰ってくるというようなことになっていました。

辛うじて8月分の抗がん剤は(父の強い希望で申し訳程度の量を)打つことができたものの、父の体力的にもう抗がん剤は難しいかもしれないということを母は個別に担当医師から伝えられていたようでした。ガン治療の医師としてももう手の打ちようがない、ということなのだと思います。

そして、ほとんど栄養を口から接種することが困難となり、医師のすすめで自宅に訪問看護と訪問医師のサービスを利用して24時間点滴を受けて生活をするようになりました。

訪問医師の最初の面会のときに、医師からは「もう数ヶ月ですね」と裏で打ち明けられたと母が言っていました。


目に見える変化がさらにギアを上がる

それが先月の話。そして今は2022年9月になりました。

点滴から栄養を受け付けるようになり、完全にガソリン不足だった父も少し元気になったようで面倒な要望をまた1日中言うようになった、というガッカリした声を母から聞かされていました。

しかしもうどう見てもあと何ヶ月も生きられない父に対して、自分はどうすべきかをこれまでより真剣に考えるようになりました。ガンが発覚して以降3年間ずっと考えてきたはずだったのですが、やはり目に見えて衰えて確実に最期が近づいている肉親を目の当たりにして、また意識のギアがグッと切り替わったように感じます。


人の最期にしてあげられることは少ない

着地点を決めずに書き始めたnoteでしたが、ちょっと結論ぽいまとめを書こうと思いました。

こんな感じで父に残された時間は多くありません。その時が今月なのか、来月なのか、という段階で、万が一流行り病などにかかってしまったらもう数日と持たない場合も考えられます。

しかし、このように残りの時間をどう過ごすかを3年という長い期間でゆっくりと考える時間が与えられたことは、(本人やその世話をする母には苦しい部分もあったでしょうが)息子としてはありがたいものだったかもしれません。

そして完全に終末期を迎えている父を見て「いよいよだな」と自分自身の意識が1段階深まったときにはもう父にしてあげられることがほとんど残されていないことに気づきました。

家では寝たきりの時間が多くなり歩行は困難、栄養摂取はほとんど点滴からで食べることも飲むこともほとんどできません。

歩く体力があれば行きたいところに連れて行ってあげたり、会いたい人にあわせてあげたり、飲むことができれば好きなお酒を一緒に飲むこともできたのですが、終末期の父にはそれが叶いません。

ですが自分は幸運なことに、病が発覚してから父との時間をつくる猶予があった上に、家が離れているものの独り身で時間があったこともあり、二人っきりでの旅行や食事が最後にかなったので「あんなこともっとしてあげたらよかった」という後悔は比較的少なくて済んでいるように感じます。

しかし、月並みな表現にはなりますがやはり「親孝行は早いうちにすべき」ということは事実だと強く実感しました。

もし親孝行のタイミングを逃すと、何も特別なことをしてあげることができずにただただ弱っていく本人を見ていく辛さだけが残ってしまうように感じます。

親孝行は半分程度は親のためではあるかもしれませんが、もう半分以上は子供の自己満足・保身の側面もあるような気がします。
かなり歪んだ見方ではありますが、親孝行とはいかに最期が近づいている肉親と対峙したときの後悔を減らせるかを、残されるものがお金と時間を支払って買っているとも言えると思います。

先に死んでしまう人との思い出は死ぬ人のためではなく、残される側のためのものでしょう。死んでしまった後に思い出の価値が上がるのは残される側です。

本当につまらない物言いですが、親孝行はぜひ早い段階でしたほうが良いと思います。

あと、書きながらふと思ったことですが、思い出というのはやはりイベント的に行う親孝行よりも日々の生活をどれだけその人と過ごしたかによるとも感じます。

記憶というのは「なんでこんなものをずっと覚えているんだろう」というものが案外多く、例えば自分は中学生のときに父が急に「靴を買ってやる」と言い出して当時車で1時間ほど離れていた仙台まで一緒に行き、ABCマートでナイキのスニーカーを買ってくれたことがありなんだかその時の記憶が鮮明に覚えていたりします。

なので本当にこれもつまらない結論ですが、やっぱり大切な人といる時間が多くある生活が後々振り返ったときに幸せと感じるものなのかなぁと実感しました。
もし今何らかの理由で身近に大切な人がいないのであれば、いつでも好きに自分の時間やお金をやりくりできる余裕を持つことも大切だと感じました。

そんな感じでとにもかくにも、「親孝行したいときに親は(いても孝行をする手段が)なし」というお話でした。

ふわふわした長い長い駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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