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こだわり過ぎて書けずにいることに、向き合ってみようと思う。
「なんか、いつもこだわってしまっていることがあって。それって何なんだろうと考えて」
6月29日・30日に開催された「cakes note FES'18」。私は29日のみ、会場に足を運んだのだけれど、そこでスイスイさんが話していた言葉だ。fesの日から、ずいぶん経過しているけれど、私はこの言葉がずっと引っかかっていた。
Fesのときはサクちゃんさん・スイスイさん・Dr.ゆうすけさんの三人が登壇され「悩みに寄り添い。書き続けること」というテーマでお話しされていた。
自分の中で渦巻いていて、言語化するのにためらうようなこと。でもそれも「どんどんnoteに書いちゃえば良いんじゃない?」というサクちゃんさんの言葉も、心にずしっとのしかかっている。
うまく書けないから、書きたくないわけでもない。ただ、自分のぐちゃぐちゃと醜い感情に向き合うのが怖いだけなのだ。
うまく書く、というか、自分の感情を言葉に表すことができないかもしれない。以前、ある人から「過去にあったいろいろなわだかまりなどが、自分の中でマグマのようにドロドロになった状態まで溶かしきることができれば、文章化できます」とアドバイスされていた。
マグマのようにドロドロになっているかどうかなんて、自分のなかにある感情は目に見えない。まだ、溶けきってもいないような気がする。じゃあ、いつになったら溶けきるのか? と聞かれるとたぶん、ずっと「分からない」と答えてしまうに違いない。
自分の身に起きたことで、なぜか向き合いたくない出来事なんて、みんな何かしら抱えているだろうし、人の悩み(?)なんて、読みたくないだろう。けれど、ずっと心に抜けないトゲが刺さっているようにも思えてならない。
とにかく書いてみる、というのもひとつの手なのかもしれない。そう思うきっかけになった記事に吉玉サキさんのこのnoteがあった。
「誰かの回復の軌跡は、同じ悩みを持つ誰かの希望になる」
確かに、その通りかもしれない。上記のnoteで吉玉さんが紹介されていたsoar(ソア)というサイトを私は知らなかった。しかし、様々な悩みを抱えながら、みな暮らしていて、今があるのだ。もちろん、悩み自体は現在進行形のものも多いだろう。けれど、自分の中にある取り扱いの難しい感情や経験を見て見ぬ振りをしていくのも、私自身、すこし違和感を感じはじめていた。
私自身、うまく向き合えずにいることがある。それは摂食障害についてだ。
中学二年生のころ、極端なダイエットがきっかけになった発症した拒食症。
高校三年生のころ、大学受験にかかわるストレスから発症した過食症。
大学一年生の冬、彼氏に対する苛立ちと悲しみから発症した過食嘔吐。
過食嘔吐と同時に、二十代の中頃にはうつ病も発症して、自分でも何が何だか分からない日々が続いていた。
過食嘔吐は、28歳で結婚した後も続いていた。今では落ち着いているけれど、また、何かが原因で発症するかもしれないとも考えている。絶対に治った、とは言い切れない。たぶん「私は治りました!」と言い切れないからこそ、言葉にするのが難しいんだろうと、なんとなく感じている。
ただ、どこかで少し向き合って、つらつらと書いてみようかとも思う。記憶がかなり曖昧なところもあるし、断片的にしか思い出せない出来事もあるのだけれど。ただ、ずっとこだわり続けて、書けなくて、心のなかにずっと居座り続けられるのも厄介だ。どっかりと腰をおろして居座り続けるなら、せめて漬物石みたいに、何かの役に立ってくれればいい。そうすれば「まあ、ちょっと邪魔だけれど、あなたにはあなたの役割があるしね」と思える日がくるかもしれない。
まだ少し、整理が必要だけれど、近々書き始めてみようと思う。
立ち上げるだけ立ち上げて休刊になっている有料noteに書こうかとも考えた。けれど、さらけだしたほうが、いいのかも、と思うので普通に投稿します。自己満足ばかりの内容になる可能性が高いのが心配だ。もっとも、いつも有益な内容を書いていないので、さほど代わり映えしないだろうけれど。
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