その女の、悲しみについて。
人はどこまで残酷になれるのか。
残酷に成れると、残酷に慣れるのふたつの意味において。
この夏の、ほぼ日の企画で紹介されたある一冊の本を読んで救いようのない気持ちが渦巻いている。
その本は「その女アレックス」。著者はピエール・ルメートル。橘明美(訳)
ほぼ日の学校、学校長である河野通和さんが「こわい本」として五冊の本を紹介された。そのうちの一冊だ。
怖い、というジャンルにはいろいろと分類できる。
心霊的な恐怖をかきたてる本もあるし、心理的にじわじわと追い詰める恐怖もある。
「その女、アレックス」は後者の、じわじわひたひたと読者に恐怖が近づいてくるようなものだった。
ただ、怖いというよりも畏れといったほうが近いかもしれない。
この小説は、小説内で三部に分かれているのだけど、第一部、第二部、第三部のそれぞれで感じとる恐怖が細かく違っている。
小説全体を覆っているのは、人間の残酷さだった。救いようのない残酷さ。神に祈ったっところで、その神は試練しか与えない。
ほぼ日で河野さんが「その女アレックス」について紹介された一文を少し引用してみる。
攻めにハズレがありません。
攻めて攻めて、ぜんぶ得点をとっていく。
パンチを的確に当てていく。
そのたびに守ってる側(読者)は、
ドスンドスンとパンチを浴びて、
全身にダメージを受けていく。
そう、まさにその攻めのすべてが、心理的なダメージとなってショックを与えられる。辛い、でも読まずにはいられない。だって、予想していた話と、全然展開が違っていくのだから……。
読み終えた後、ショックが大きかった。物語は完結するのだけれど、厳しい現実を突きつけられて終わる。そこが小説だったと言うのが、たったひとつの救いかもしれない。
「その女アレックス」の前には「悲しみのイレーヌ」と言う話がある。
つい、そちらにも手を伸ばしてしまった。「その女アレックス」の話の中で、「悲しみのイレーヌ」に関する話がちらほらと出てくる。それがもう気になって仕方がない。もっとも、「悲しみのイレーヌ」を読み始めると、「その女アレックス」で知ってしまっている大きな事実があって、まだ読み始めたばかりなのに、この先の展開がひどく残酷になるであろうことが予想されて、とても切ない気持ちになる。
人はどこまで残酷になれるのだろう。
きっと、どこまでも果てしないに違いない。
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