教材の共有について思うこと
学校の先生は、それぞれ教材について勉強し、それぞれ授業を作ります。
学年で進度を合わせたり、テストが共通の場合は内容の擦り合わせをしたりするときはありますが、
僕の知る限り、少なくとも高校では、
教材研究はソロプレーです。
僕は、常々思うのです。
共有したらいいのに、と。
これ、一見簡単なことに見えますが、
現実はものすごく難しいのです。
僕が共有したいと思うのは、
①各教材に対する考え
②生徒に問うこと
③作成したスライドやプリント
④テスト問題
などですが、
場合によってはひとつも実現できません。
まず、①や②について。
各先生が経験や能力、思考の限りを尽くして研いだ考察。
この技術の結晶には価値があると思います。
そうしたものをひけらかす必要はない。
ただ、学校という組織、教育に携わる仲間たちに対しても門戸を閉ざすのは、また意味合いが違うと思います。
もし教員同士の連携がなければ、
教材について、生徒は担当者によって異なった結論を導きかねない。
たとえば、『こころ』という夏目漱石の小説を授業で扱うとします。
よく問われるのが、
「Kはなぜ自殺したのか」という問い。
ある先生は
「失恋したから」
という結論をもとに授業を組み立て、
別の先生は
「友に裏切られたから」
という結論をもとに授業を組み立てたとします。
それぞれの担当した生徒たちは、授業後にまったく違った考えを持つことになるかもしれません。
そして、ここで大事なのが、
「失恋したから」も「友に裏切られたから」も両方とも誤り(不十分)であるという点。
もし、この二つの意見が出会っていれば、さらに深い読みが可能だったかもしれない。
これは独りよがりの教材研究の怖いところでもあります。
では、なぜ共有しない人が多いのか。
僕は端的に↓だと思いますが……
まったく余計なプライドがもたらす弊害は凄まじい。
③や④についても同じことがいえるかもしれません。
僕は、プリントなどの資料については共有しない意味がまったくわかりません。
意見交換については、時間も労力も要するので
「そんな暇はない」
という反論が成り立つかもしれませんが、
データの共有には何もデメリットがない。
共有したうえで、各自が取捨選択すればいい。
充実している人は使わなければいいだけだし、
困っている人には少しでも参考になればいい。
僕は、学校の教科のPCに自分の作った資料を全部置き、誰でも使用できるようにしていましたが、
ほかにデータを置いてくれる先生は誰もいませんでした……。
まとめ。
僕は、仲間に対して手の内を隠すのは悪手だと断じます。
「自分の作ったものなんて」
「自分には難しいことはできないから」
「新しいことはやるつもりがない」
現場で、こういう言葉を聞いたことがありますが、こうした言葉がすべてを表しているような気がします。
謙虚を装ったプライドの高さ。
欠如した学ぶ姿勢。
捨てましょう今すぐに。
はい大掃除、大掃除(もう年始)。
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