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【解】子を亡くした母が悟った理由

【解】なんて仰々しい題をつけていますが、【問】に対する僕なりの解説、解釈です。
1+1=2のような、唯一絶対の解答を意味するものではありません。

【問】はこちら↓

問い、特に「なぜ」の問いは多層的です。それについては以前触れています↓

僕は、考える力というのは、表面的な理解に留まらず、その物事の深層にいかに潜っていけるかどうかが重要だと考えています。
そういう意味で、国語の問題は、テストでは1つの「正解」に絞られる(はず)のですが、現実には解がいくつも存在する。
要は、どれほど深い層で語れるか。これこそ、思考の醍醐味であり、知的好奇心の遊び場なのです。

めくるめく思考の世界なので、敬語とかは使いませんが。あしからず。

本題。
キサー・ゴータミーが悟りを開いた理由は、「死は誰にでも訪れるものだという事実に気づいたから」だということは、誰の目にも明らかだ。
しかし、これではまだ「浅い解答」だ。なぜそういえるか。少し踏み込んで考えてみる。

それは、「死は誰にでも訪れるもの」なんて、キサー・ゴータミーはとっくに知っていたからだ。
彼女に限った話ではない。子どもだって知っていることだし、我々も知っている。
ではなぜそのような「浅い解答」に落ち着いてしまうのか。

もう一度本文にあたる。

1歳くらいの子どもを亡くし、悲嘆にくれているキサー・ゴータミーという母親がいた。人々は同情し、仏陀に頼めば、奇跡を起こして子どもを生き返らせてくれると勧める。希望を見出したキサー・ゴータミーは死んだ子を抱いて仏陀に会いに行く。仏陀は「村へ帰って芥子の実をもらってきなさい」と言った。彼女は喜んで走り去ろうとする。そのとき、「ーーただし、死者を出したことのない家からもらっておいで」と仏陀は付け加えた。村に戻った彼女に、村人は喜んで芥子粒を差し出すが、身内を失ったことのない家は見つからない。希望を捨てずに家々を尋ね歩くうちに、彼女にも仏陀の言葉の意味がわかってきた。村をまわり終えたときには、彼女の悲哀は鎮まり、すがすがしい気持ちになっていた。

物語の流れが、我々にそう読ませている。キサー・ゴータミーの行動を簡略化すると、

①子を亡くし、悲しむ。
②仏陀に蘇りを懇願する。
③村で死者のない家を探す。
④死者のない家が見つからず、悟りを開く。

この③→④に悟りの理由があると読むのは自然だ。
しかし、それではやはり先述の「浅い解答」で終わってしまう。テストでは○がつくだろう(こんな足場の危うい問いをテストに出せる勇者がいるとすればだ)が、我々の貪欲な知的好奇心にはまだ不満だ。

ではどう答えるべきか。ここの言語化が非常に難しい。

まず、問いを正確に把握してみよう。
問いは、「キサー・ゴータミーが悟りを開いたのはなぜか」。

まず、「悟りを開く」とはどういう状態なのか。
辞書によれば、「心の迷いが解けて、真理を会得する」こと。
ここでいう真理とは、「人はみな死ぬ」という事実にほかならない。
しかし、彼女はそれをすでに知っていたはず。知っていたことを「会得する」とはどういうことか。

これは、実は我々も日常の中で経験することだ。
たとえば、街で芸能人を見かけたとき、「本当にいたんだ」という奇妙な感慨を抱くことがある。
テレビに映る芸能人も、生身の人間だ。この世界のどこかで生活しているし、当然、街でばったり出くわすことだってある。
しかし、知識として知っていることと、それを「確信」することはまた別だ。
つまり、街で芸能人と出会ったとき、ライブでアイドルと対面したとき、初めてこの世界に彼らの存在を「確信」するのであって、それまで彼らはあくまでテレビの向こうの住人だったのだ。

こうした感覚は、キサー・ゴータミーがそうだったように、死において特に顕著だ。
誰か身内が死んだとき、我々は初めて万人に平等に訪れる「死」に厳然として対面する。
誰だって、自分がいつか死ぬことは知っている。だが、その瞬間まで確信には至らない。

彼女は、人の死というものを心身で理解したのだ。それが、ここでの真理の会得である。

では、その「気づき」はどういった経緯でもたらされたのか。子の死によってか。違う。

「気づき」の過程は、あくまで③→④に表される。
彼女は、死者を出したことのない家を探すが、見つからず、その末に真理を会得する。したがって、彼女の「気づき」は村人たちによってもたらされたと考えられる。

果たしてその考えは妥当か。
先に述べたように、「死」の理解は、普通は身内の死によってもたらされる。
他人の、しかも目の前にない死に触れ回ることが、本当に「死」の理解に繋がるか。

問題は、キサー・ゴータミーの「心の迷い」にある。
彼女は、子の復活を願っていた。
死んだ者は二度と戻らない。これも、誰もが知識として知っている。
しかし、もしかしたら愛する我が子だけは。
そんなありもしない一縷の望みを、彼女は抱いてしまっている。

ここで、彼女の嘆願を受けた仏陀の視点に立ってみる。

仏陀は、彼女の「心の迷い」を払拭しようとしたのではないか。
当然、仏陀は死を理解している。死は誰にでも訪れるし、死者の復活はありえない。
だから、彼が彼女に提示した課題が達成不可能だということも、もちろん承知していた。

彼女が子の復活を諦めるにはどうすればいいか。


少し卑近な例を挙げる。
もうすぐクリスマス。僕はお気に入りのケーキ屋でクリスマスケーキを予約するつもりだったのだが、うっかり予約を忘れてしまった。店のホームページを見ると「予約終了」の文字。
しかし僕は諦めきれなかった。もしかしたら、実は枠が余っているかもしれない。キャンセルが出たかもしれない。
縋るような思いで電話をかけた。
「終了しています」
そこでようやく僕は諦めた。

この例のとおり、人が「諦念」に至るためには、ある種の「体験」が必要となる。
それは、人から聞いたり、間接的に知ったものではいけない。
自らの体で経験したものが、真の諦念をもたらす。

仏陀の課題は、この「体験」に主眼が置かれていたのではないだろうか。
キサー・ゴータミーは、その足で村をまわり、その耳で村人たちの「死」に関する話を聞き、その手で課題の失敗(芥子の実を集められなかったこと)を経験した。
子の復活という挑戦に体でぶつかり、敗北した。

復活はできないということを、体で知ったのである。
仏陀は見事に、彼女の「心の迷い」を解いた。

ここで村人たちの果たした役割も大きい。
「心の迷い」を解く過程で、彼女は同時に集団の規範を受け入れていく。
「人はみな死ぬ」ということを、村人はみな体験として「知って」いる。

以上をまとめると、以下のようなことがいえるのではないか。

彼女の「死」の理解を阻んでいたのは、ほかでもなく我が子の死という辛い現実だった。
彼女の抱えた最大の問題は、子の復活を願う「心の迷い」だった。
仏陀はそれを見抜き、彼女の「心の迷い」を払拭するためにあえて無理難題を課した。
仏陀の課題に挑戦する過程で、彼女は村人たちの規範に直に触れた。
課題に失敗することで彼女は「心の迷い」を手放し、「死」に関する村人たちの規範を受け入れることができた。

つまり、この問題に答える上で重要な点は2つ。
・体験によって、子の復活を願うという「心の迷い」から解放されたこと。
・村人との交流によって、万人に平等に訪れる「死」の現実を受け入れたこと。

このように見ると、実は③→④よりも、②が問題の根幹を成していたことがわかる。
彼女にとって、子の死という問題に対する「解決」が、子の復活という不可能なものだったから、彼女は苦しんだ。
その「解決」自体を放棄することで、彼女は苦しみから解放されたのだ。


結論

仏陀の課題に自ら挑戦することにより、子の復活という不可能な解決策を放棄し、その過程で村人たちと交流することによって「死は誰にでも訪れるもの」という集団規範を受け入れることができたから。

授業で扱うとしたら

対象

文章の短さ、わかりやすさでいえば中学生でも可能だろう。しかし、「死」「確信」「体験」「規範」などの概念を扱うと考えると、高校2〜3年生にもたえうる内容ではないか。

問いの構成


まず、本題を投げかける。
「キサー・ゴータミーが悟りを開いたのはなぜか」
「浅い答え」が返ってくると予想される。
それは決して間違いではない旨を伝える。
しかし、「それはもう知っていることではないか」と問いかける。


既知の事実に「気づく」とはどういうことか、考えさせる。例を挙げさせる。グループで議論させてもいい。「悟りを開く」の意味は確認しておく。
議論の段階で核心に迫る生徒がいれば、言語化に努めさせる。
「気づき」に必要なものは何か考えさせる。「体験」の役割を確認する。


物語を起承転結で捉えさせる。本記事のように単文で考えてもいいし、4コマ漫画にしてもいい。
悟りを開いたきっかけがどの部分にあるかを確認する。
キサー・ゴータミーの「体験」が何か考えさせる。


仏陀と村人の役割をそれぞれ考えさせる。グループで議論させる。
全体で議論する。
自分の考えを記述させる。

評価

・「悟りを開く」など語句の意味がわかる。
・自分の考えを記述できている。
・仏陀と村人の役割を自分の言葉で説明できる。


最後までご覧いただき、ありがとうございました。
ぜひあなたの意見を知りたいです。
思考は、他者との交流の中で鍛えられるものと信じています。

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