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自分が思う「自分」なんか70億分の1の自分でしかない。

「あなた」は何人だと思う?
「あなた」はどこにいると思う?
そう言うと、わたしはここに一人しかいませんよ! と答えるだろう。
でも、考えてみてほしい。あなたのお母さんにとってのあなた、あなたの同僚にとってのあなた、あなたの隣人にとってのあなた、それらはすべて同じ「あなた」だろうか? そして、それぞれの人の中に「あなた」がいるのでは? 
「うちのダンナとはまったく合わないのに、どうして会社ではうまくやっていけるのかしら?」ということが当然、起こる。不思議なことではない。ダンナさんとの関わり方は地球上には70億通り存在し、ダンナさんのことをまったく知らない人たちの「誰それ?」(有名人でもない限りこの反応が最も多くなる)から奥さんの「あいつ許せない!」(身近な人ほどホットな感情が生まれる)までさまざまな「ダンナさん」がこの世にある。奥さんの言うダンナはそのうちの1つでしかない。もっと言えば、ダンナさん自身が考える「ダンナ本人」も奥さんの考える「ダンナ」とはまったく違う。

個性も関係性も無視した単なる“個体数”としては、みんな「1」。でも、ダンナさんを「1」として見たことなどないはず。だからホットな感情も生まれてしまう。人の数だけ関係性はある。関係性の数だけ人は表出している。
「あなたという人間」のことを世界中に質問すれば70億通りの答えが返ってくる。その意味で、70億通りのあなたがこの世の中には存在していると言える。すべての人がそのようにたくさん存在している。
だから、合わない職場しか存在しないわけではないし、いじめられない場所だって転校すれば見つかる。
もし、あなたが誰にとっても同じあなたでしかないのならば、あなたはどこで働いても、どこの学校へ通っても、同じ扱いを受けるだろうけれど、幸いなことにあなたは70億面体の人間で、接する面次第ですべて異なる存在なのだから、どこでも同じ関わり方をされるあなたしかいないということはあり得ない。
同じ扱いを受けたほうが楽だから、そのために自分自身が先回りをして誰に対しても同じ関わり方をするという術を持っている人もいる。けれど、自分が望むように他人は思ってはくれないという現実がそこにも例外なく適用されて、世の中は思うようにはいかない、と実感することになる。
自分は一種類の自分ではなく、対する人によって違う人間として存在できることを活用して、より自分にとって意義ある場所と関係性を探究していけば、我慢を強いられている生活よりも間違いなく伸びやかでいられる。世の中は思うようにいかないほど広いのだから、自分の存在を決めつける必要はない。

他人があなたのことをどう思うか、どう受け止めるか、どう対応してくるか、そんなことはあなたの関知することではない。他人の領域の問題だ。あなたはそこに何もできることはないし、何もするべきではない。他人からこんなふうに思われたいと願っても、そんなエネルギーを70億人にも費やすことなど不可能。自分に使うべきエネルギーを、他人を変革することに使おうとするのは間違っている。
あなたができる健全なことは、自分が理想とする自分に近づく努力をすること。そのためにも自他の問題の区分は明確に理解しておく必要がある。
例えば、お母さんは優しいから、子どもが忘れ物をしないようにあれこれと先回りして用意してくれるけれど、用意をすること自体は子どもの問題(経験、役目、責務)で、忘れ物をして学校で困ったことになるのは子ども自身の問題(経験値、財産、成長)。言い方を換えると、子どもが学んでいく場面は子どもしか体験できない。それを奪ってはいけない。
お母さんの役目は忘れ物をしていないか確認をさせることと、親として不安を抱え続けることだけ。不安という感情を消したいがために子どもに成り代わって自分で用意してしまうのは、親の役目を失っていることにしかならない。「あなたは用意する人、わたしは不安に駆られる人」というのが自他の問題をわきまえているあり方だ。子どもからどんどん不安を与えてもらって、それに打ち克っていく強さを身に付けることで、お母さんはお母さんになっていく。子どもも同じことを後に経験することになる。
お母さんが思う「この子」だって70億分の1でしかない。子を思う気持ちの強さは世界一であったとしても、いくらお母さんでも70億分の1の子どもの姿しか知らない。子どもを社会で育てていくのはがんばっても70億分の1でしかないからだ。
でも、世の中は思うようにいかないくらい広いのだから、思いもしなかった支え方を他の誰かがやってくれる。この子の世界は本来そのように用意されている。
この子は70億人の世界で生きていく。自分は正しい、と思っていることがあったとしても、自他が存在する社会という場ではそんなものは70億分の1でしかないほど世間は広い。社会は「壁」でもあるし、多彩な受容の場でもある。
そのとき自分は、どちらを選択しているか。「壁」を感じる場よりも、受容されている場を選ぶはず。つまり、自分とは違う見方で理解してくれる人たちがいること無意識に分かっているのだ。
自分の思う自分だって自分に対する見方の70億分の1でしかなくて、相手のことも70億分の1でしか分かっていないという現実は、逆に言えば、他にもたくさんの自分の見方があって、たくさんの関わり方があるのだから、自分の考える1つのことに執着しなくていい、ということ。自分の思う自分も変わっていいし、相手に対する見方も変えていい。むしろ、すっと同じように考えているのは不自然でしかない。

いくつもの自分があることを知るのは容易ではない。自分に自分が執着してしまうから見ようとしなくなる。でも、むずかしい理由もそれだけでしかない。
こう考えるといい。70億分の1の自分で出した答えや70億分の1の関わりで生じたことが間違いだったと気づいた。これは、間違いを選択してしまう70億分の1の自分から脱皮するときがやってきたというお知らせだ。愛着はあるかもしれない、長年、ここまでを経験させてくれた70億分の1なのだから。でも、もう必要ない。新しい70億分の1の自分に変わるときだ。新しい自分になる以外、新しい答えも新しい関係性も見いだすことはできない。
そういう経験を人生で一度でも持てることは、面白くて有意義なことだ。
自分が思っている70億分の1の自分を捨てて、自分が思っていなかった新しい70億分の1の自分になっていくことがなぜ心地よいのか? それは、それまでの自分の決めつけたパターンをすべて「ゼロ」にすることだから。
うまくいかなかった自分の考え方や関わり方を、まるで別の芝居を始めるかのように意識的に変えてしまうのは、生まれ変わりでもあり、生き直しでもある。覚悟であり自覚でもある。
逆に言うと、思い通りにならないことがあったから「70億分の1の自分」から次の「ニュー70億分の1の自分」へ進むことができる、と考えることもできる。どこまでも更新できる自分は多面的で多様なのだと気づくことができれば、失敗したことは無駄ではなくなる。
ほんとうは、うまくいったときにも、成功した70億分の1の自分を捨てるのがいい。きっと次も同じ70億分の1の自分を使いたくなる。そこが落とし穴になってしまう。なぜなら、成功の後の失敗の原因は、十中八九、成功体験から離れられなかった執着心にあるからだ。

毎日、仕事へ行く前に「きょうの自分は新しい」と自覚できれば、きのうまでのネガティブな感情はどうでもよくなる。毎朝、ゼロの自分に出会えるのは、70億分の1の自分を更新できたからだ。きのうのクレーム処理から始めなければならない朝であっても、きょうの自分は別人なのだから、まったく初めてのクレームに対して向き合っていくと考えればいい。
意識的に新しい自分になっていく変化を気づかせてくれるのは、他人だ。自分の出会う人たちは、自分が思っている自分とは違う自分を見ているのだから、新しい自分になっても必ず自分とは違う自分を見ている。つまり、自分が変わっても必ず70億通りの自分が自分の周囲にいるということ。
その意味で、自分はどこにでもいるし、自分なんてどこにもいないとも言える。そんな不確かなものを自分と呼んであれこれ迷ったり臆病になったり不安になったりしているだけだ。
自分の価値感だとか、自分の正義感だとか、自分の好みだとか、自分のこだわりだとか、自分の気持ちだとか、自分の実績だとか、自分の経歴だとか、70億分の1の中のさらに小さな話題でしかないものを拡大解釈しないことだ。
そんなことよりも、70億分の1の自分がいま、身近な人や関わり合った人に何を差し上げられるか、どんなメッセージを届けられるか、社会に何を生み出していけるか、そんなことを考えて実行していったほうが明るくて健全だ。うまくいかなくたって、わずか70億分の1が考えたことに過ぎないのだから、たいしたことではないと思えばいい。
あなたは「1」ではない。あなたは「7,000,000,000」の自分として存在している。
 
 

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