見出し画像

「書くこと」と私。

振り返れば、「書くこと」に支えられた半生でした。
今まで私が何を書いてきたのか、お話ししたいと思います。

その前に。
ここまで2回、私が今ここでこうして書いている経緯について書きました。まだ読んでないという方は、この記事を読む前に、ぜひこちらも読んでいただけると嬉しいです。

さて、今回の記事ですが。
少し長いので、気になる所だけでも読んでいただけると嬉しいです。

「書くこと」との出会い


「書くこと」との出会いは、小学校2年生のとき。
日記の宿題でした。

「先生あのね」というタイトルのノート。
内容は何を書いてもよくて、先生からの返事が嬉しくて、毎日一生懸命書いていたのを覚えています。

私はひとりっ子
父は口数の少ない人で、会社勤めでしたから、幼少期の私は基本的にいつも母とふたりきり。

この「母とふたりきり」が、私にはとても息苦しかった。

母は、どちらかというと、とても感情的な人でした。
何をやっても怒らせてしまうし、怒るとものすごく怖い。
だから、正直言うと母と「ふたりきり」になるのがすごく嫌でした。

でも、幼い私にはどうにもできない。
家の中に他に話せる人はいないし、とにかく母を怒らせないように過ごしてました。

そして、誰でもいいから「3人目」にいて欲しかった。
3人目がいれば、母は決して怒らなかったから。

そんな時に出会ったのが、先生との日記。
何を書いていたか詳細までは覚えていませんが、ホントに毎日せっせと書いてました。
先生はいつも丁寧にコメントをくれました。
コメントは短いけれど、私の話をしっかり聞いてくれたことが嬉しかった。
貴重な外部との接点でした。
私の心の中に、家族以外で話ができる「3人目」ができたという安心感が生まれた気がします。

日記はこの後もずっと私の「書くこと」のベースとなります。
まったく書かない時期も何度かあるけれど、書かなかった時期の方が短いんじゃないかな。

作文の時間は、勝負!


文章を書くことに出会った私は、作文も大好きでした。

作文の授業は、原稿用紙が1枚書けたら、前の教卓に追加の用紙を取りに行くシステム。

2枚、3枚。

私が席を立つ度に教室がざわめきます。

そんな私に対抗してくる子もいたけど、枚数が増えるごとに徐々に脱落。
いつも最後まで勝負を挑んでくる男子が1人だけいたけど、10枚を超えた辺りでいつも彼が白旗。

もう、快感です。

私にとって、彼との勝負は「負けられない闘い」でした。

長続きしない交換日記。


小学校も高学年になると、交換日記が流行りました。

私も仲の良い友だち何人かとやったのですが、いつもすぐに相手から「もうやめよう」と言われてしまって長続きしないんです。

それはなぜか。

最初はいいんです。
お互い気持ちが盛り上がってるから。
色々書いてくるし、毎日ちゃんと相手からノートが返ってきます。

でも、すぐに相手の文章量が減ってくる。
そして、ノートが毎日返って来なくなるんです。

「私が書いた量に対して、返事はこれだけ?」
「何で次の日に返ってこないの?」

そんな不満を相手にぶつけると、

「毎日そんなに書くことないよ。」
「大変だから、もうやめよう。」

と言われて終了です。

友だちが私について来れない。
相手に自分と同じことを求めてはいけないと学びました。

不良少女?との文通が忘れられない中学時代


中学時代と言えば、一番多感なお年頃。

小学校時代にとても仲良くしていた友だちがいて、中学でも同じ部活に入りました。

しかし、中学2年の頃、その子がある日突然いわゆる「不良グループ」の仲間に入ってしまいます。
きれいな黒髪は茶髪になり。
セーラー服の袖をまくり、おへそが見えそうな短い丈。足首まで届く長さのスカート。
先生にも反抗的な口調で話すようになり、態度も乱暴になりました。

付き合っていた男子にフラれたことがきっかけともウワサで聞きましたが、本当の理由は分かりません。
色々な事情があったのでしょう。

そんな彼女でしたが、私にとっては大切な友だちのまま。
彼女も私の前では、見た目以外は、口調も態度もずっと変わりませんでした。

でも、状況を見かねたご両親と学校側が相談して、環境を変えるため、彼女は山梨の親戚の家に身を寄せることになりました。

山梨に行く直前、彼女が転居先の住所を私に手渡しながら言ったんです。

手紙ちょうだい。

それから、彼女との文通が始まりました。

めちゃくちゃ読みづらい丸文字で、「こっち(山梨)の制服の色がダサい」とか「田舎で周りに何もなくて退屈」などと他愛もないことばかりが書いてあったけど、中学3年になって彼女が戻ってくるまでの約1年間、文通は途絶えることなく続きました。

山梨から戻った彼女は、かなりソフトにはなったけど、口調も態度も服装も相変わらず。
私は違うクラスだったのに、彼女の担任に呼ばれて、「あなたの話なら彼女も聞くから、話し相手になってあげて欲しい」と頼まれたりしました。

今のようにメールやSNSもない時代。
中学卒業と同時に疎遠になってしまったけど、私との文通が、少しでも当時の彼女の心の支えになっていてくれたなら嬉しいと思います。

小説家に憧れた高校時代


高校生になる頃には、「書くことが好き」という自覚が生まれました。
書くこと=小説という安直な発想で、小説家に憧れを抱くようになります。

そんな時、同じクラスの男子が小説を書くことが趣味だと知りました。

「すごいね~。私も小説書いてみたい。」と言うと、
「小説なんで誰にも書けるよ」と言う彼。

「そんな、誰でもなんて書けないでしょ?」と言うと、
「だって日記書いてるんでしょ?それを繋げるだけで、立派な私小説だよ。」と。

日記が小説になる。

目からウロコな一言でした。
それからは、「いつか小説のネタになる」という意識をもって日記を書くようになりました。

高校3年のときには、年1回発刊される校内誌に短編小説を寄稿。
私の作品が初めて活字になって人に読まれた想い出です。

毎日2時間位以上かけて日記を書いた学生時代


こんなこと言うと怒られそうですが、
学生時代は時間を持て余していました。
ヒマに任せて、毎日、日記を2時間以上かけて書いてました。

朝から起こったことを時系列に思い出しながら、
誰に会った、
誰と何を話した、
誰とどこへ行った。

高校時代に「日記があれば小説が書ける」と言われたことを拠り所に、ただひたすら書いていた気がします。

でも、結局小説にまで仕上げたものはなかったので、ただただ時間のムダでした…。

「手書き」でホームページを開設した30代


時代が2000年代に突入した頃。

仕事でHTML(Webページを各言語のようなもの)を習う機会がありました。
面白くて仕方なかった私は、勉強も兼ねて、ホームページ作成ツールなどは使わずに、「手書き」でホームページを作り始めました。
ボタンや矢印など、ホームページ用の素材も自分で作成。

コンテンツは、旅行記、写真、そして、日記。

まだ「ブログ」なんて言葉もなかった時代。
毎日せっせと日記を書いて、ホームページを更新しました。

同じ頃、コンパクトデジカメも比較的安価で手に入るようになりました。
もともとスナップ写真を撮ることが好きだった私は、即購入。
結婚したばかりの夫と出かけた記録を記事にまとめ、デジカメで撮った写真を添えて作った旅行記もホームページに載せていました。

短い期間でしたが、「まぐまぐ」でメルマガも発刊していました。
ホームページの更新情報や、コラムを書いた月刊誌。
もう、気分は憧れの発信者。
「物書きになりたい」という夢が叶ったような日々。
その時でさえ、「すごい時代になったなぁ」と感じていました。

人生最大の誤算!Facebookで育児日記を10年間更新し続けた40代


初めての出産は38歳のとき。

私たち夫婦は結婚して10年間子どもが授かりませんでした。
でも、こんなことを言われると怒る人もいるかもしれませんが、私は積極的に子どもが欲しいというワケではなかったんです。
子どもはいなければいないでもいいかな、と思ってました。

でも、そう思っていたのは私だけ。
夫も、両親も、義理の両親も、みんな子ども(孫)が欲しかった。
だから、頑張って治療しました。

そして、幸いなことに、無事に息子を出産。

実際に出産してみたら、不覚にも、私の人生最大の誤算が待ち構えていました。

「えっ?何?自分の子どもって、こんなにカワイイの?

生後3ヶ月を過ぎた頃、それに気づいちゃったんです。

毎日、目の前で繰り広げられる想像を絶するおもしろ劇場。
これを誰かとシェアせずにはいられませんでした。

子どもの写真を不特定多数に公開したくなかったので、Facebookで公開範囲を面識のある人たちに限定。
その日の小さな幸せを育児日記として更新し続けました。

気がついたら、10年続いてました。
このFacebookは、今では我が家の宝物です。

アメブロで不妊治療体験を発信


先に書いた通り、私は不妊治療経験者
最初は、家族のために、とにかくひとりは産まなきゃと思って始めた不妊治療でしたが、生まれた息子が可愛くて可愛くて。
こんなに可愛いなら、もうひとりぐらい欲しい。
40歳までに、もうひとり産めるかな?
そう思い、再び治療して、41歳のときに娘を出産しました。

不妊治療をしていて感じたのは、女性であっても妊娠・出産について知らないことがあまりにも多過ぎるということ。

もっと早く知りたかったことばかりでした。

ここでも、「知っている」と「知らない」は大きな差を産みます。

そして、気持ちを分かってくれる相談相手が欲しかった、ということ。

周囲に不妊治療を受けている人はいなかったし、
母親や友人に話してみても、先入観や偏見に満ちあふれた回答しか返って来ない。
今のようにSNSもない時代。
ものすごく孤独な闘いでした。

不妊治療に限ったことではありませんが、経験者の気持ちは経験者が一番よく分かるんです。
経験者同士にしか分かり合えない想いがあるんです。

だから私は、私の想いを発信しました。
アメブロで記事を1年ほど書きました。

医療関係者ではないので、専門的な話はできないけれど、
患者目線で学んだこと、
感じたこと、
若い内に知っておいて欲しいこと、
周囲に言われて傷ついたこと、
誰も教えてくれなかったこと

そんな想いがひとりでも多くの女性に伝わって欲しい。
私の想いが、誰かのチカラになってくれていればいい。
そう思っています。

Twitter、そして note へ


2度目の育休から職場復帰した後の40代半ば。
それなりに色々あって、副業を始める決意をしました。
その流れの中で、49歳の誕生日にTwitterを開始

140文字の世界は、また新しい挑戦だったし、
書くことを通じて、再びたくさんの方と繋がれたのは、とても大きな喜びでした。

そして、
これから先も、今まで私を支え続けてくれた文章と共に生きて行こうという想いに辿り着きました。

私の想いを
もっと自由に、もっと私らしく表現したくて
note を始めます。

「書くこと」をテーマにした発信で、
書くことの楽しさを伝えていければと願っています。

ぜひぜひ、一緒に書くことを楽しんでいきましょう。
よろしくお願いします。

それにしても。
今思うと、すべて趣味レベルでやっていたのがもったいない。
もっと早く「書くことの価値」を知っていたら、もう少し色々とやりようがあったのではと思います。
失ってしまったコンテンツもあるので、しっかり保存しておけばよかった…。

でも、仕方ない。

「知らなかった」私が悪いのです。
またこれから書いていけばいいことです。
すべては、私の心と頭の中に詰まっているのですから。


全3回に渡って、私が今ここでこうして書いている経緯について書いてきました。この記事と併せて、こちらの2記事もぜひ読んでいただけると嬉しいです。
そして、気に入ってもらえたら、フォローとスキで応援お願いします!

この記事が「参考になった!」「共感できた!」という方は、ぜひフォローとスキをお願いします♪
#003


この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?