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話す勇気、聴く優しさ

聞き役として消耗されることは慣れている。
いや、消耗という感覚も今はないかもしれない。

昔は話を聴くときに、泥水をかけられたような感覚があった。愚痴、悪口、相談、依存心。
吸い取った分、私の心は重く汚くなっていく。


でも今は、傾聴の仕方や課題の分離を学んだことで冷静に聴けている。つもり。
自分の心の声も聞きつつ、目の前の人の言葉に集中する感覚。



自分が聴き役になりやすい分、自分の話をすることはあまり無い。
これを言ってしまうと人によっては人間不信になるかもしれないが、私が私自身の話をするときは、大抵目的がある。
自分のことを先に話すことで、敵意がないことや自己開示をしてほしいとき。
似たような経験があることを伝え、手早く仲間意識をもたせたいとき。
失敗談を話すことで、相手にリラックスしてほしいとき。

そんな調子だから、雑談もそこそこ神経をつかう。もともとコミュニケーションは苦手だし。


だから「私でよければ話を聴きますよ」と言ってくれた同僚の優しさに動揺した。

聴くことを仕事や役割にしている人を、多くの人は気にかけない。
そんなことより自分が話したいだろうし、それで全然問題ない。それで良かったのに。

【養護教諭】としてではなく、【私】自身に興味をもってくれて、そのために時間を割いてくれようとしてくれたことが嬉しかった。



話したいことはたくさんあった。
でもうまく言葉にできない。今の気持ちの嬉しささえも。

……もしかしたら話すことでガッカリさせるかもしれない。
私という人間性に。

弱さを隠すことが上手くなるばかりの、脆い自分を曝け出す怖さもあった。
話を重く受け止めてしまうかもしれない不安も。
話を聞いて必要以上に悩ませたり感情を揺るがすかもしれない。
私が話すことで、今後彼女が私の心的負担を考慮して相談してくれなくなるかもしれない。

と、同時に、今まで聴いてきた人たちのことを思い出す。
どんな気持ちで私に話してくれたんだろう。
私はたまたまタイミングが合ったくらいに思っていたし、実際それも多いのだろうけど、もしかしたら軽視し過ぎていたのかもしれない。

話を聴くことの重さ。
怖さ。
そして、あたたかさ。

どんな話も、どんな自分も受け止めてくれると私を信じてくれたからこそ、勇気をもって話してくれたのかもしれない。
そう思うと、話してくれた人たちが尚更愛おしく思えた。
大事にしたい。
まもりたい。
幸せを願いたい。



同僚に私の話をした。

しっかり聴いてくれた。

知っててくれるだけで充分なんだ。
励ましもアドバイスも要らないんだ。
そんなふうに聴いてくれる存在が、ありがたいなぁ。

そして、養護教諭として、そんな役割をさせて貰えている有り難さ。

どちらが助けるとか、支援するとかではない。
聴くことも話すことも双方がいないと成り立たない。

そんな当たり前のことに、今更ながら気づくことができた。

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