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内田百閒の『百鬼園随筆』


百鬼園日記帖

内田百閒が最初の作品集『冥途』を出したのは、一九二二年で三三歳のときでした。数えで二九歳から三三歳までの作家的自我の形成期に日記をつけており、それが『百鬼園日記帖』という本にまとめられています。時期的には陸軍士官学校、海軍機関学校のドイツ語教官を経て、法政大学の教授になり、岡山から家族を呼び寄せた時期に相当します。三十前後の頃はいつも鬱屈して、過去に拘泥し、死を怖れ、交友関係が破綻して、人生としても大変な時期だったようです。

この日記帖の前書きで百閒は、「拾イ読ミヲ避ケラレンコトヲ懇願スル」と断っています。だから、この時期の日記帖には特別な意味があったのでしょう。日記によると百閒は「創作の箱」というものを作り、原稿を完成度で甲乙丙に分けて保管していました。他に「過去の心の箱」と「創作の覚書の箱」それに「昔の恋の箱」もあったと言います。作家としてデビューする以前から「心の表を通り過ぎる印象、心の底から消えて行く記憶」を日頃から書き留めていたのです。

百鬼園随筆

百閒の小説が漱石の「夢十夜」に影響を受けた、夢や幻想の論理に貫かれたものであったとすれば、後に『百鬼園随筆』にまとめられた小品や随筆は「記憶の論理」で書かれているように見受けられます。特に祖母に溺愛されて、幸福だった幼少年期の記憶が語られることが多いようです。たとえば「琥珀」で琥珀を作ろうとして、結局松脂が臭すぎて屑籠に捨ててしまうような出来事。あるいは「遠洋漁業」の川でとったメダカの煙臭くて食べられなかったことなど、匂いというものが記憶を喚起するという特徴が挙げられます。

これら小品のちょっと怖いようでいてユーモラスな感じは、小説を書くという作為を通さずに、とりとめもない記憶が持つ甘美なニュアンスを、そのまま保存しようという努力から来ているのでしょう。実際、最初は創作の足しにしようと書き留めていたものが、段々と「大事な私の心の遺産」を残しておこうという心持に変わった、と百閒は日記に書いています。

百閒は漱石の死の翌年から、この日記帖をつけていました。師の漱石という人が過去を顧みることのない人だったので、自分はどうしてこうも過去に溺れてしまうのだろう、と百閒は悩みました。そして「私が過去を顧みるのは私の過去だからである」、価値はなくてもいいから、何程かの可愛さとなつかしさが残っていればいい、と思えるようになったとき、百閒は漱石の影響から離れて一人の書き手として出発できたのでしょう。


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