太宰治の「猿面冠者」「トカトントン」
猿面冠者
太宰治の「猿面冠者」(『晩年』所収)という初期の短編を読んで思い出すのは、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説のことです。八十年代にはハリソン・フォード主演で「ブレードランナー」という映画にもなっています。
この小説のなかでアンドロイド狩りをする賞金稼ぎのハンターは、人間そっくりなアンドロイド(クローン人間)を見分けるために「共感ボックス」という機械を使って「感情移入度」テストを行います。誰もが驚くような残酷な話をしながら、相手の瞳孔の動きを観察します。自分に関係ない話でも、感情移入して心を動かされるのは人間だけだという前提があるのです。
感情移入
太宰治の小説の魅力は、言うまでもなく読者に共感というより、強烈な感情移入を覚えさせることです。それはときに「この小説は自分だけのために書かれたのではないか」と思わせるほどです。しかし「猿面冠者」をよく読んでみると、主人公の「男」は大抵「自分」とはちっとも似ていません。
主人公は、古本屋に売ったチェーホフの本を読み返したくなって、未練たらしく自分が売ったその本を立ち読みしたり、英語教師の歓心を買うために、高校生のくせに「かつて葛西善蔵は言った」というような、生意気な自由作文を書いたりするのです。「自分」とはかけ離れた経験が書かれているにもかかわらず、この主人公の経験は自分自身のものだと思えるほど、感情移入度が高いものになっています。
高度な技巧
「猿面冠者」という小説には高度な技巧的な裏づけがあります。一見、葛西善蔵のような私小説のテイストが満載ですが、「男は」とか「彼は」という主語を使った三人称で書かれたフィクションです。小説を書く人の楽屋話のように見えて、読者の目線より一段低いところで主人公を卑小に描き、おどけてみせて、読者が感情移入しやすいように工夫しています。
この短編を収めた最初の本『晩年』について、太宰はこんなふうに言っています。「私はこの短編集の一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じ朝めしを食わなかった」「私はこの本一冊を創るために生れてきた」
『晩年』に収められた短編は、二三歳から二七歳くらいの時期に、同人誌や懸賞小説に書かれたものがほとんどです。
「猿面冠者」も同人誌に発表されました。
周囲の小説や批評を書く仲間を感心させ、頭角を現すには、「シェイクスピアは言った」みたいな当たり前のことを書いていては駄目で、読者の意表を突くような技巧が必要だったのでしょう。そういう環境のなかで、太宰は自分の小説を読ませる技術を身につけていったのではないでしょうか。
トカトントンの音
太宰治の「トカトントン」における音について考えてみたい。この短編小説では、天皇の玉音放送の後、金槌で釘を打つトカトントンという音が聞こえてくる。このとき主人公の「私」は「きょろり」となる。「きょろり」は聞き慣れない副詞だが、大辞林によると「目を大きく見開いているさま」「平気なさま けろり」とある。
本文にもあるが、「きょろり」あるいは「けろり」は決して虚無的(ニヒリズム)ではない。金槌で釘を打つときのトカトントンという音は、何か建設的なイメージさえ与えるだろう。それと同じように「きょろり」も、何かに囚われた状態から、平然とした状態に戻るようなイメージの音ではないだろうか。あるいは健忘症の音といってもいいのか。
苦悩ときょろり
この書簡体小説の語り手を太宰治のように読む人がいるようだが、私はむしろ太宰に手紙を送ってくるような戦後日本のたくましい民衆ではないか、と思う。
敗戦時に自害しようと思ってもケロリとして、鬱病になってもケロリ、失恋してもケロリ。政治運動のデモに感動してもケロリと忘れ、スポーツに感動してもケロリと忘れ、虚無的に生きようとしても自殺を考えてもケロリと忘れる。
そして、尊敬するという作家に手紙を書いても、全部嘘じゃないかと書いてケロリとする。手紙を受け取った作家は「気取った苦悩」だといい、「いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けている」と指摘する。
自分の宿命と対峙することを避けているというのだ。「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とする」というのは、色々なことを知るよりも、そのどれか一つに飛びこむことが必要なのだ、と言っているのだろう。
「トカトントン」という短編小説の最後にあるマタイ十章からの引用は、まわりの人々の目を怖れるな、地獄で裁く神を怖れよ、ということであろう。やはり「きょろり」としているだけでは、駄目なのである。
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