仕事と勉強と遊び


 僕は、近藤康太郎という朝日新聞の記者が好きだ。

 信じられないくらい文章が上手。
 リズムもあるし、一文が短くて、それでいて独特の熱がある。
 多分、ちょと変わった人なんだと思う。

 この近藤康太郎さんが出している本はあらかた読んでいるのだけど、最新作の

「ワークイズライフ 宇宙一チャラい仕事論」

という本。

 はっきりいうと、ダサい。
まず、本のタイトルがダサい。この人、かなりの量読書をしてきたのだろう。凄まじい数の文字を打ってきたのもわかる。
 けど、なんかちょっとダサい。

 本人もちょっとわかってると思う。けど、それを突き通してこそカッコいいだろ?といった感じ。だから、いわゆる一周回ってカッコいいと思えるからすごい。

 それでいて「俺、こんだけ頑張ったよ。だから、君たちもきっとこうした方が人生楽しめるんじゃないかな?」言葉を借りるなら「よく いきられる」といった内容を書いている。

 攻撃的な一面、男性らしさがほとばしる僕は
「ダセェ。努力を誇示すんじゃねぇ」と読みながら言いたくなる。
 だけど、新刊が出れば必ず読んでしまう。
近藤康太郎さんが書いた、朝日新聞のコラム欄、「多事奏論」は必ずノートに書き写している。

「ダセェ」くせに「偏屈やろう」って分かる。

だけど、素人目に見ても分かるくらい文章がうまい。だから引き付けられる。

 で、氏の最新作を読んで。

 氏は、「仕事」とはがむしゃらにやって当たり前なものだ。Noというな。やりたくないことでもやれ。プロだろ?なめんな。じゃあ働かない?ふざけんな。働いて働いて、働くまくった先にやりたいことってのができるようになるもんだ。
 働きまくる →  どんどん仕事が舞い込む →  だんだん周りから一目置かれる →  仕事を任される → 仕事効率が良くなる →  いよいよ誰もNoと言えなくなる →  自分のやりたいことができるようになる
ってなもんだ。と。
 加えて、そもそも仕事を選んでいるうちは、そんなやつのする仕事の産物が面白いはずがないだろう。事故や、偶然から生まれる産物。それをどう処理するか。それが面白いんじゃないか。予定調和なんてクソ喰らえ。
 答えのあるものを探すことを「考える」とは言わない。それはクイズだ。考えないやつに何が生み出せるのだ。と。

 熱い。明日から頑張ろうと思う。

 次に「勉強」。学生時代の勉強とは限られた時間、限られた環境で限られた内容を強制的にさせられるものだ。
 しかし、社会に出てからの勉強とは、自分のためのもの。それでいて人から強要もされない。自分で自分に発破をかけていく。孤独だ。その孤独に耐えて行う。そして勉強とはつまり本を読むこと、そして頭の整理のためにも、文を編むこと。インプットとアウトプットだ。
 書くときに、書いたものをまた自分は読んでいる。ここに文を書くことの意義がある。書いているうちに、自分の頭が自分を追い越していく。そして自分の考えを、自分の書いた文から教えられる。
 人は、相手に対して「この人に自分の意思は伝わるのか?」ということを意識するものだ。文を編める。本を読める。とは、識字能力がある。または高いということだ。そんな人に相手は安心、信頼するものだ。
 つまり、知識もさることながら識字能力の言うものが対人関係において重要な要素である。それを勉強という。言葉を知れ。考えろ。読め。ジャンル問わず、なんでも読め。

 熱い。もう少し読書時間を増やそう。

 最後に遊び。
 人生は遊ぶためにある。しかしそれは、仕事と勉強の間になければならない。そして、遊びの充実は仕事と勉強を間接的に幇助するものだ。そして、何よりこれこそ最も力を注がなければならない。生きていく理由なのだから。

 熱い。半端な遊び心はかなぐり捨てよう。


 ということで、私は今何をしているか。

 まず仕事。残念ながら僕の職場は団体で動くことが多い。
 なので、全体で動く時を除いて、与えられた役割、書類は誰よりも早く、それでいてクオリティーの高いものを提供できるように努めている。
 だけど、さして勉強もしていないくせにただ年配というだけの上司から指摘や、書類の添削を受けて、せっかくのリズム感や正しい日本語が崩されてしまう。
 悔しい。だけど、それも込みで「仕事だから」と甘んじて受け入れることにしている。心の中では「ふざけんな!」「辞書ひいてから言葉の添削しやがれバカ!」と相手をなじり倒しているけれど。
 改悪を喰らうのも、つまり自分の実力が及んでいないからだ。と思うようにして、般若の形相で書類を殴り打つ。いつか僕の仕事に誰もNoと言えなくしてやる。と。
 周りにこんな反骨精神で仕事をしている人を知らない。いや、以前、1人だけ反骨の権化のような広島出身の後輩がいた。彼の勧めでnoteを書いているのだ。

 次に勉強。成果をまだ感じられないけれど、とにかく活字に触れるようにしている。
読書、新聞、そして良い文に出会えた時は、書き写すようにしている。意味があるかは分からない。けれど、人と同じことしてても、人と同じ止まりでしょ?天才じゃないなら、時にはあえてちょっとズレてみる。自分の人生なのに自分がモブになっちゃう気がする。自分が分かるような分からないような。少しファジーな立ち回りで、少しだけでもずっと刺激に苛まれたい。
 だから、暇があれば文章に触れているようにしている。読む時は、書き手の思想を軽く強要される。自分が読んでいるのに、誰かになったような感覚。自分が書くときは、自分が書いているのにできた文章で自分の考えを始めて知る。そんなちょっとした刺激とちょっとした集中が、僕を少しだけ世間から遠ざけることなくズレさせてくれている気がする。

 遊び。これが良く分からない。僕は、1人遊びが苦手だ。
小さい時、レゴを与えられると何時間でも1人で遊んでいられるような子だった。ゲーム、お絵描きでもそれさえあれば何時間だって打ち込んでいる子だった。小学校の時、鍵っ子だった僕は、親が帰ってくるまでの数時間。大便ついでに便座に腰掛けていろんな妄想をするのが楽しくて仕方なかった。
 高校時代くらいを境目に、1人遊びが急に苦手になってしまった。勉強についていけなくなってからだ。学生なので、つまり「勉強という仕事」が上手くいかなくなった。そこから遊び方が分からなくなった。誰か人といてならなんでも楽しめるのだけど、1人だと楽しめない。1人で何かしていても、癖のように写真を撮り、SNSにUPして他人を意識してしまう。これは遊びと言えるのか?誰のための遊びなんだ?

 氏の言葉を借りるならば「仕事」と「勉強」の間にしか「遊び」は生じ得ないし、生じなければならない。と。
 ならば、まだ「仕事」と「勉強」への打ち込みが足りなのだろう。


 少し真面目な記事になってしまいました。

 反省してま〜〜す

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