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■詩作と「差別」を考える

現代散文自由詩人の独り言(41)

激込みの食品売り場にて

年の瀬12月30日、東京北部のターミナル駅のひとつ北千住。86歳の岳父の正月の買い出しに付き合った。
朝10時の開店とともに食料品売り場はすぐに満員。1時間弱の滞在ではあったが、帰り際にはかなりの列がレジにできていた…。
昨年もその買い物に付き合ったが、今年はコロナ禍での反動か、今月はかなりの消費拡大が進んでいる感。

お節に入れるような食材、年越しに食べるごちそうなどを求め大勢の人でにぎわっていた。若い人はそれほど目につかなかったが、高齢者、車いすに乗ったり、杖をついていたり…体の不自由な人(ひざ痛でびっこを引くぼくもその一人か)も、常とは違う表情、少し殺気立つような空気の中で買い物に来ているように映った。

あれもこれも

老いも若きも
常日頃の2割3割増しの値札も気にせず
車いすに乗ったり 杖付きながらの不具合ある人も
大勢が買い物に来ている…

といったような詩を書こうと思い、ノートに綴りだした。
そのとたん、体の具合の悪い人、障害者への差別を織り込むような詩になる…と感じて、書くのをやめた。
ノートをちぎって、丸めて捨てた。(一部ここに書いたが)

何十万、何百万の新聞読者、ネットニュース読者に向けてぼくは文を、詩を書いているのではない。
一個人、しかもペンネーム、非商業的世界で自分の思いを自由に書き綴ってきた、いるのである。

差別の感情が入り混じった文、詩を書いたところで、ぼくのnoteが炎上することはないだろう。

だから、「そんなことは気にするな」と思わないでもない。
現に、これまでも詩ではっきり書いたことはないと思うが(いや、あるか…)、学歴差別的なことを書いたり性差別についても、表世界ならイエローカードレベルのことは書いたりしてきたように思う。

たまに立ち止まって考えてもよかろう

自分だけの日記、ノートに記し、ずっと誰の目に触れるものでもないのなら、それもアリだろうが、少なくとも数人、数十人くらいの人はぼくの文を読んでいるのは間違いない…。読んで不快なものはやめたほうがいいんじゃないか。
との、忖度、気働きをした…といえそう。

noteは、だれも読まない日記ではない。

やはり、最低限の常識とネット、SNSでのエチケットは守ったほうがよいか、と思った。

ぼくが書こうとして、心の中に浮かんだのは、読む人が読めば、「これは差別だ」「そこまで書く必要ないんじゃないの」という内容になったかもしれないが、人間を描く…ということであれば、自分以外の者が読んだり見たり、聞いたりすれば、ネガティブに不快に思うことも出てしまうだろう。
そこで詩作なり、創作を止めるのは、これまたどうだろうか。

珍しく、悩んだことだ―。

※写真は読売新聞オンラインから


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