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「知っているのは ぼくだけ」

昔のことばかり 昔のことばかり
思い出して

1981年3月10日
ぼくら 母と息子が
上京して

大学に合格して(一浪して)
下宿を探しに出てきて

駅前の不動産屋
中央線沿線の 某駅の
古臭い ガラスのはまった木戸をガラガラと開けて
入った不動産屋の主人に
「石川県から来ました」
そう言ったら

そこの主人に
「ワジマ 引退しましたね」
と言われて

夜行に乗って 東京へ(着いたのは上野駅)
山手線で新宿に出て
それから京王線 本線じゃなく 京王新線で

地下通路をどう歩いて―
(大学受験時に そのルートを使い覚えていて)
乗り換えて 乗り換えて
八王子と日野の境に近い
ただひたすら
だだっ広い
ほこりが舞うような
白い白いビルと レンガ敷のペデストリアンデッキ
それだけが自慢の大学キャンパスへ

国立大学の発表も概ね終わった時期
下宿もほぼ埋まる状態でして
学生課が紹介してくれるのは
ヘンピな所か
家賃の高い所ばかりで

仕方なく 母子は
通学ルートとしては不便な
中央線某駅に向かい
駅前の不動産屋にたどり着いた
夕方近くだったような

不動産屋の案内で
駅徒歩5分
木造モルタル2階建
当時で既に築20年ほど
といった 古いアパート
名前は(みどり荘)

母52歳 ぼく19歳(誕生日がきたら20歳)
その日が その

「ワジマが引退表明した」日で…

とりあえず その不動産屋の主人の案内で
見に行った(みどり荘)

玄関ドア前 コンクリートの上に
ゴキブリの死骸がひとつ

それを 不動産屋の主人が
靴の先でけとばした

カラリと立てた音に
母は気づいたろうか(ぼくは音も聞いた そのものも見た)

カチャンと 鍵を開けた
中は6畳と流し
トイレはあった(水洗!)
実家のトイレも汲み取りだった(笑)
東京郊外でも 実はまだ汲み取りはあった時代
家賃は2万5千円くらいだったよう…な

そのころが
(昭和の末)との意識はなく
ずっと ずっと昭和が続くような
母も ぼくも そう感じていたって

「ここで いいがいね」

母は言った
面倒くさいのだろう
その日 東京に1泊して
もう一度探すのは―

ぼくは意見はいえず
その晩の夜行で そのまま帰った

あれから41年余り
あれが漂流の始まり

「あの人 朝鮮人やね」
母は 不動産屋で仮契約をした後
駅に向かいながら
そう言った

なるほど―
あのとき ぼくは そう思ったろうか

あの日 52歳だった母は
令和の時代を見ることなく
4年前に逝った

ぼくは 61歳になった
あの日の 母よりずっと(年をとった)
定年過ぎて再雇用 非正規の労働者

41年の歳月って
(そんなもの)

昔のことばかり 昔のことばかり
思い出して

「ワジマ引退の日」(にたどり着いた)

そこから 東京の生活が始まった
その事実は
あの 半島出身らしい顔をした
不動産屋の主人だって知らない

知っているのは ぼくだけ

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