書かせるから子どもは作文嫌いになってしまう
作文の先生がそんなこと言って大丈夫なの?と心配されそうなタイトルですね。でもこれが、わたしが子ども達に作文を教えたいと思うようになった、根っこの部分なんです。
今日はそんな、少しセンシティブなお話におつきあいいただけたら嬉しいです。
わたしは昨夜、テーマ作文・課題作文に使える書き込み式プリント(教材)を有料noteとしてアップしました。
それをきっかけに、個人的に思うところがあふれて、note記事に書き残したいなと思ったのでした。勢いに任せたら良くないなというのはわかっていて、書くか書かないか自体、一晩寝かせたんです。でも今朝起きて、やっぱり書こうと思ったのでnoteを開きました。
わたしが毎年夏に開催している「読書感想文一日講座」ですが、実は告知してないけれど「テーマ型の作文も教えてほしい」というお申込みが多く、その数は年々増加傾向にあります。
夏休みの宿題が、読書感想文一択ではなく他の作文コンクールでもOKというような、学校での指導方針の変化や世の中の動きを感じますね。わたしが子どもの頃は「必ず提出」でしたから。書くかどうかを自分で選べるならいいことじゃないかなって、わたしは思います。学校によっては、他の取り組み(習字、絵画、工作、自由研究、創作)などを含めた一覧リストのなかから○個以上提出、みたいなところも多いようです。
話をテーマ作文・課題作文に戻します。
今年の夏休みもまだ前半ですが、作文教室の小中学生たちといくつかのテーマ型の作文に取り組みました。「働く人を応援するありがとう作文」「人権作文」「社会を明るくする運動作文コンテスト」「なりたい大人作文コンクール」など、いろいろです。
いつも思うんです。
大人だって、作文の先生してるわたしだって、これらのテーマをポンと渡されたら「どうしよう」と言葉に詰まってしまうのでは。すぐに「はい、書けました」とはならない。これに取り組む子ども達、しんどいんじゃないかな、って。
文章を書くというのは、自分と向き合うことです。
書こうとするとき、自分と向き合わざるを得ないともいえます。
作文コンテスト・作文コンクールに共通する趣旨が、”このテーマについて考える機会を持ってほしい”っていうのは、わたしも理解しています。広く知らしめる。大切なことです。
しかし、末端のわたしは、日々、子ども達と一緒に悩みます。「どうしてこの題名で書かないといけないの?」「これを書いたらどう思われるかな?」「本当のこと書いていい?本当のこと書いたら怒られる?」「…………(無言で作文用紙を見つめる子)」「書きたくない」「意味が分からない」
そうだよね。
すごくわかる。
書けないと何も考えてないって決めつけられるその圧がつらい。書いていないとさぼってるみたいに叱られるのになんかムカつく。
書けてないけど!
書いてないけど!
書いてないだけだから!
まちか先生がこれまで出会ったどの生徒を思い返しても、何も考えていない子なんていませんでした。文章化していなくても、いろんなことを感じて、いろんなことを考えて、毎日を全力で生きている。みんな大好き。
書けないなんて思わなくていいよ、言語化、文章化するにはそれなりのステップが必要なの。いきなり書くのは大人でも無理だよ。今はまだ書く前だけれど、こうやってお話をしてたら、いろんなことを感じてすっごく考えてるのが分かったんだ。わたし、聞けて良かったーって、もっと聞きたいって思ったの。だから、それを作文にするお手伝いをさせてほしいんだ。
わたしはそういうスタンスで子ども達と関わっています。
例えば、人権作文。
人権とは何かをどこかから引用しても文字数は埋まりません。実体験、つまり自分が見聞きしたことを書くことになります。切り口として多いのは、自分がされて嫌だった経験をもとに展開するパターン。相手が嫌だと言わなくても、やってる側に他意はなくても加害行為にあたることはある。我慢せずに、嫌なことは嫌と言っていいこと。そういう主張を組み立てます。
そういう経験、何かある?
そんな抉り方、最悪でしょ。いい年した大人のわたしにだって、聞かれたらきついことってある。子ども達はまだ生きはじめてそんなに経ってないんです。大人なら過ぎた出来事を消化して、表に出す用(人に聞かせるため)に編集済みかもしれない、でも、年若い子ども達からしたら、たとえ過ぎたことだとしても、まだそれは未消化の生の体験なんです。処理するための時間が圧倒的に足りない。
わざとじゃくても、相手を抉っちゃうことってありますよね。無機質な文字列の「作文課題についての説明」でも、そう。”作文テーマ”ってそういうとこある。
子ども達に、自分にあった出来事を思い出してもらったり、いろいろお話するとき、それについて作文に書くかどうか、わたしは必ず確認します。
「このテーマでね、自分のことを書くってすごく勇気がいると思うの。こんなことあったなって、そのときのこと詳しく思い出したら、忘れてたことでまたあなたが傷付いちゃうかもしれない。まちか先生はそれが心配なの。どうする?」
子ども達はちゃんと目を見て聞いてくれます。「うん。書く」と力強く頷く子、「だいじょうぶ!自分は間違ってないと思うから」と瞳に光が宿る子、「いいよ。書いてみようかな~。大丈夫だよね?先生が一緒だから」と笑顔で鉛筆を持つ子。
わたしは子ども達に寄り添いたいと思っています。作文でそれができたらいいなと思っていたけれど、、書く行為っていう、人の心に不用意に近づいてしまう取り組みだからこそ、ひとりの人として守りたいものがあります。作文で寄り添うとかじゃない、作文で子どもの心に近づくなら寄り添う覚悟がいるってこと。作文教室を運営して12年、今あらためてそう思います。
ここで、わたしの昔話を。
わたしが高校生のときです。文系コースだったからか、小論文の課外授業がありました。忘れもしないその日のテーマは「挫折」。
たしか課外授業は、臨採か非常勤かそういう先生だったと記憶しています。ふだんの授業をしている先生ではなかった。別にこれはディスりではありません。背景としての情報です。
「あなたの挫折経験について1200字で書いてください。寝坊して待ち合わせに遅刻したとか、やろうとしたのにやれなかったとか、友達とケンカしたとか、そういうことは挫折じゃありませんからね。挫折とは何かしっかり考えて書いてください」
制限時間はたしか60分。
声がかかり、みんな一斉にシャーペンを握りました。わたしは、机に向かって考えます。書けません。最初はちょっとしたもやもやだったのですが、作文用紙に向かいながら、次第に、言いようのない怒りがこみ上げてきました。
なんで書かなくちゃいけないの。
意味が分からない。
分からない。
……分からない!!!!!
一応、ちゃんと小論文のかたちとして提出できるようにと、構成を考えたりもしました。それなりに読めるような意見とエピソードもプリントの空きスペースにメモしました。でも、書けない。書きたくない。
残り時間はあと15分。
わたしはそこから、一度も消しゴムを使わず一気に書き上げました。
そういう内容で。(さすがに丸ごと覚えてはいないので、こんな感じという雰囲気でお読みください)
時間が来て、作文用紙は回収されました。友達に帰りにカラオケ行こープリクラ撮ろーって誘われたけど、わたしの気力はもうエンプティ。ごめんねって断って帰りました。
文章を書くって、自分そのものを引きずられるくらいの何かがあります。そして、受け止めると評価するには大きな違いがあります。当時のわたしはそこを突きたかったんだと思います。舌っ足らずでしたけど。今となっては、いちいちそんなことやってたら先生たちの身が持たないのも分かります。
それでも、と思います。学校の先生たちが大変なのなら、学校外でわたしができることをやれたらいいなと思ったのです。良い悪いとか、教育現場を叩くのではなくて、手を取り合えたらという気持ち。作文教室の名前をサードプレイスにしたのも、子ども達にとって家庭、学校に続く3つ目の居場所になれたらという思いからです。
さて、高校生のわたし、翌日、国語研究室に呼ばれました。職員室とは別に教科ごとに先生たちがいるお部屋がありますよね。そこです。
課外授業での先生とは別の、ふだん現国を教わっている担当教師がわたしを待っていました。
先生「また面白いの書いたなぁ、お前」
わたし「0点でいいです」
先生「まあまあ、そう言うな。最後の ”作文が得意で書けないものはないと思い込んでいたわたしに書けないものがあると突き付けられた、今日の出来事がわたしの挫折体験です” これだな」
わたし「読み上げないでください」
先生「いいじゃないか。まちか節」
わたし「……ほめられてる気がしませんけど……」
先生「ほめるの上だ、惚れるね」
わたし「wwwww」
先生「昨日課外で書いてもらったこれに点数は付けないんだ。トレーニングだからな」
わたし「でも評価基準はありますよね」
先生「段落構成が基本通りじゃないと入試では難しいかもしれんな。課題の意図を読み取れてないとはねられる可能性もある」
わたし「(わたしは文学部志望だったので小論文は必須でした)本番どういうテーマが出るか分かりませんが、それはもう運だと思って諦めます」
先生「読んでみたいが書けとは言えない」
わたし「なにがですか?」
先生「昨日のテーマ。挫折。お前が書くなら読んでみたいがね、俺は」
わたし「先生それ仕事関係ない……」
先生「だからだよ。それを言いたくて呼んだんだ。悪かった」
わたし「……0点でも書いてよかったです……」
今でも、ときどき思い出します。
ライターとして書く仕事をしたり、作文の先生として子ども達と取り組んだり。いつもスムーズにいくとは限らなくて筆が止まることありますよね。迷った時、書けない時、思い出すんです。国語研究室での先生とのやり取り。先生ありがとう。
点数や値段がつかない文章かもしれないけれど、意味があるものだってたしかにある。誰かが書いた血が噴き出るような文章、それはその人のもの。それを安易に他の人に求めちゃダメなんです。誰かの痛みや苦しみを持ち上げたり読み捨てしたり、……世の中そんなことばっかりですが、せめて子どもが作文に向かうときはそういうこととは無縁であってほしい。受け止めてもらう当てのない文章を書くことに慣れると、書くこと自体に興味が薄れてしまうから。
寄り添う覚悟がないのに書かせるな。
責任も取れないのに無理に暴こうとするな。
作文指導のまずさが作文嫌いの子どもを増やしているという見方があります。そうなのかもしれません。わたし個人の意見では、指導法の良し悪しというより、作文に必要な人対人として関われるリソースが圧倒的に足りていないんじゃないかなって思います。
わたしは、ささやかだけど、自分にできることをやっていきたいと思います。
書くか書かないかの意思確認。保護者さんには「そんな、先生、書かないって言い出したらどうするんですか。宿題なのに」って言われてしまうけれど、子ども本人に直接聞きます。必ず。
大人に何の覚悟もないのに一方的に書かせようとするから、子どもは作文嫌いになる。それがわたしの考えです。作文ってその子の内面に触れるアプローチだから、関わる大人もそのつもりでいてほしいなと思うのです。わたしはその一点をこれからも守っていきたいと思います。
いろんな指導法、いろんな塾や作文教室があっていいと思うし、あった方がいいと思います。選択肢があるってすごく大事だから。そんなふうにいろいろあるなかで、わたしと出会って一緒に時間を過ごす子ども達との学びを大切にしたいなと思うのです。
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